昨晩、頭痛がすると言って寝込んだ夫がこのニュースをシェアしてきました。
一言で言って「余計なお世話」であり、最後に一言言いたいのも「余計なお世話」です。
人のプライバシーに踏み込んで推測だけで書くことが是とされていいのか、と思います。で、なぜ夫が私にこれをシェアしたかというと、私も昔、摂食障害だったからです。
このブログでは(他のブログはないのですが)別にそのことをほじくり返して検証しようとは思わないのですが、このニュースを読んで(読まされて)just thinkingですが思ったことがあったので反論も込めて書こうと思います。
自分自身も当事者だった時は、この「親子関係説」にずいぶん振り回されました。過去をほじくり返して、忘れた記憶もいろいろ引っ張り出して、あれか、これかあの時ママに怒られたことか?と思ったものです。
でも、よく考えるとその場にいたお姉ちゃんの方が怒られてたりもして、私がいっぱい怒られてる時は姉が必ずかばってくれていて、しかも怒られる理由が明確なんです。
「朝頼んだ洗濯物をどうして取り込んでないの?」
「お昼ご飯食べて洗い物もしないで夕方まで何してたの?」とか。
言われたことをやらない、だらしない私がいるわけで、そりゃ怒るわな、と思います。
しかも、中学以降、私が忙しいせいもあってそういう場面は劇的になくなったし、私も徐々に片付けができるようになっていったので、別にそれが原因ではなさそうです。
今持って、「ではなぜ」と思うのは、私の場合は単純に痩せたかったからです。そこに、なんの深層心理もありませんでした。
深層心理があるほど複雑な頭脳で病んだわけじゃない、ということは確かです。
これは私の場合。だから神田沙也加さんが健康か摂食障害か、よくわからないし、松田聖子(母親)が原因でそうなったとかいうのはもっともっとわからないです。
ただ、言えることは、摂食障害にしろ、何かの精神的病にしろ(余談ですがヤク中のほとんどは合法ドラッグです。バファリンを大量に飲むとかセデスを一晩中飲むとか、そういう場合が多くて違法ドラッグのヤク中というのは、薬の中毒者の一部だと聞いたことがあります)、たとえその原因が家族にあったとしてそれがわかっても、快方に向かうわけではない、ということです。
幼い頃からの親子関係の延長に今の自分がいるのは確かけど、苦しんでいるのは「今、ここにいる自分」です。
過去の苦しみが変えられて、自分から消えて無くなるなら過去をほじくり返すのも有効かもしれません。
癌はそういう意味では切除して完治もあるので、過去から続く問題が大きくなった時に問題(癌)ごと取りされることもあります。
でも、精神的な病は起点もはっきりしないし、何より切除できないから治るために過去のあれこれを探ってもしようがない、というのが今時の心理学のカンセリングの立場のようです。
過去は大きなキーワードですが、それは「過去の意味づけを変える」という点において重要なのであって、人は過去を変えられないし、過去だけでは今を受け入れ未来に進めません。
私が病気真っ最中だった時にいくつもの出来事やものが私を救ってくれました。
その一つがこの本。
すごいムカついてたと思います。自分にも周りにも病気にも。
そこからなんか折れてた膝がまっすぐになった気分を覚えています。内容は全部忘れちゃったのに。
自分の「治りかた」はひとそれぞれ。本当は内科的病気も外科的な怪我も、治りかたって人それぞれでペースもあって、自分の免疫力もあって、いろいろですよね。
精神的な病気は「なんかよくわからないもの」なので発言しにくいし、周囲の人は困惑するばかりですが、この人なりの折り合いのつけ方、未来の描き方ができるようになるといいなと思ってくれたら、本人はとっても楽になる気がします。
子どものときの病気とも違い、誰かに同情されるようなものでもなく、誰にも言いたくないし強くいたいと思わせるのが摂食障害にはある気がします。
だから病気をテンプレートにまとめてわかったつもりにならないでほしいなって思いました。
そして私の場合と他の人の場合も違うので、私も絶対に自分のプロセスを人に押し付けたくないと思います。
というわけで、夫には「もっと深いものがいっぱいある」ということを伝えました。