子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。どうせなら人に役立つことも書ければと思います。

感情は信頼できるか。

つい先日、登戸で大人を含め小学生が殺傷される事件があり今もニュース記事を読むたびにものすごく胸が痛くて悲しくなります。

headlines.yahoo.co.jp

この春、ゴールデンウィーク目前に池袋で暴走車に轢き殺された母娘がいて、ゴールデンウィーク明けたら大津で保育園幼児がやはり交通ルール違反によって園児が亡くなりました。

あれからたった数週間で今度は登戸で殺人事件。狙われたのは小学生と思うと、悲しく、辛くてなんでこんなに子どもたちの命が取られてしまうのだろうかと、誰にぶつけようもない疑問といらだちと怒りを覚えます。

 

しかも、よく聞けばカリタスの生徒がターゲットともわかり、友人の母校ということもあってさらに気持ちの中で整理しきれない感情があります。

友人もまた、今は何も考えられないけど同窓生同士で話し合ってると言っていました。

 

ツイッターなどを見ていると、「自殺するなら一人で死ね」と言っていたり、それに対して「そういう言い方はやめろ」という意見があったり。でも今のところですごく心に響いたのが以下の2記事。

 

news.yahoo.co.jp

news.yahoo.co.jp

この2記事を通して思ったのは、「私たちは社会で起きるどんな出来事にも、その距離はどうであれ理性的に、しかし決して忘れることなく向き合って行こう」というメッセージでした。

「犯人許せない」も「一人で死ね」もかき立てられる感情としてはすごく分かる一方で、それを発信する人の今の心理状態はどういうものなのだろうかと考えさせられることがすごくあります。

「被害者の前でも同じことが言えるのか」。

という言説も聞くけど、では、「加害者が自分の愛する人だったら??」と思うと、私だったら面と向かって一人で死ねというのかな。「この人の苦悩をなぜわかっていなかったのか」という自責の念の方が強くなりそうです。

 

この事件で思い出したのが、ノルウェーの話です。

わりと超有名ですが。

www.newsweekjapan.jp

ノルウェー史上最悪の事件と言われていますが、ノルウェーは死刑制度も持たないどころか、囚人にも学ぶ権利などを与えています。

 

いろいろな事件があって、全部の事件がそうと言わないけれど、私と殺人者、犯罪者とそうでない人の境目ってすごくあやふやで危うくてわからないものだと思っています。

 

ただ、もしかしたらと思うのは誰かが抱えている不調や不安や苛立ちに誰かが関わっていたり分かち合っていたら、もしかしたら防げたこともあるのかもしれない、ということ。

それは何も今回の殺人事件のことではなく、セルフネグレクトや自殺や、虐待や...。

そう思うと、誰かをスケープゴートのごとく血祭りにあげても事件は絶えず、人の諍いや孤立だって変わらないのではないかという気がします。

 

事件のいくつかは人の無関心が起こしていると思います。

ことに、虐待事件などは。

 

マザー・テレサが30年ほど前に日本に来た時にすでに指摘していたのは、日本には物質的豊かさがあるけど、愛がないと。

愛がないとは、憎しみや妬みがあることはなく「無関心である」と言ってたと聞きましたが、日本社会はまさに無関心を地でいくようなところがあるなぁと思います。

 

今、仕事でたくさんの患者さんの人生に触れる機会があります。第一線で働いていたのに病気になった人、ある時期精神的に病んでしまってから自分なりにレールを築いて生きてきた人、もう人生の様々な時期を乗り越えてすっかりいろいろと忘れていたり、思い出したりを繰り返している人...。

 

その一人一人に関心を寄せて(というのはもうほとんど愛情かなっていうくらいに)話を伺ったり、七転八倒することしかできないなぁと思います。

 

辛いことの方が多くて私も一緒に泣きたくなることが多々あるけど、私がすべきこと・できることは受け止めることくらいで。なんだか何もできない自分が歯がゆくて、すごいお世話になった大先輩にまた相談&叱られなくては...。

 

自分の関心を誰かに(対象者に)伝えることは簡単そうで難しそうなのですが、挨拶をしたり、自分が先に相手への安心を示したり、相手の気持ちに少しでも理解できる部分を探したり。そんな中に少しずつ表出されていく気がします。

 

「あいつは嫌いだ」「あいつは許せない」「あんな奴は生きている資格ない」とかそうした強い文言が発信しやすいSNSの発達した社会。

だけど、だからこそ人は言葉を選び、強い言葉は抑制的に、感情よりも理性に重きを置いていけないのか、と思うことがあります。

 

感情は一時的でどうしても年月とともに薄まるものです。

だからこうした悲しく辛い事件があっても感情とともに薄れてしまうことがありますが、理性的に深く考えたことはずっとずっと残るから、本当の意味では事件の教訓や被害者への悼みをより深くできるのではないか、そんな気がします。

 

今回の川崎の事件を通して、人の無関心が生んだ事件なのではないかと思い、川崎市の会見を見てさらに感じた次第でした。