子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

屈折した考え

昨今、男性が育休を取るという機運が高まっていて、男性社員にも育休をとることを推奨する会社も一部はあるようです。

とてもいいことだと思います。

 

核家族が当たり前になって数十年。

共働き世帯もここ20年くらいでとても増えていると思うし、出産とはなんぞやという知識も昔と違ってネット検索でたくさん情報があって知ろうとする人にはその大変さがよくわかるようになっています。

 

はるか昔。と言ってもたかだか6年前、夫も育休を取ろうとしていました。どこまで本気かは別として。

まあ、彼としては「子どもを理由に休めていくばくかお金ももらえるなんてオイシイ」くらいの意味合いだったかもしれませんが。

その時に思ったのが「面倒臭い!昼間くらい一人にしてくれ、自由にしてくれ」ということ。

夫がいるというだけで、昼ごはんのこと、掃除洗濯のタイミング、全部全部にコミュニケーションが差し挟まる面倒くささに卒倒したものでした。

赤子と二人、適当に時間を過ごすにはあっという間の10時間とかだった私にとって、ただただ、夫が家にいるということ=面倒が増えるという考えでした。

 

世の中の多くの妻方はそういう考えなどないのだろうし、私は本当に屈折してるんだろうなと思います。

離婚はなるべくしてなったのかもしれないと、そのことを思い出すたびにしみじみ思います。

 

結婚してみるまで、というか結婚して妊娠して、子どもが生まれて...という段階の中で婚前には許容できてたことや気にも留めなかった言動がいちいち気になるようになってしまった私の方にも問題があるんだろうと思います。

 

でも、なんとなく透けて見えてしまう相手の思惑というのはお互いにあって、彼は「どうせ僕のことバカにしてんだろう」と私に対して思っていたし、私は私で「コントロールしたがってる」という印象を強く持っていました。

 

バカにしてるか?というとそんなつもりはなくても、「なんでこんなこともわからないんだろう」とイライラすることがあったので、それがつまり、バカにしてると感じられていたのだろうと思います。

内容はすごくどうでもいいことからどうでもよくないことまで。

 

今でも連絡を取ることがあり、スムーズに話せることもあればイライラを募らせることもあります。

最近では、元夫の誕生日に子どもたちが会う予定になっていたのですが、あいにく先方の体調不良でキャンセルに。こちらはいつも通り保育園に出すだけなので特に問題はなかったのですが、夜に電話がかかってきて「今日はなんの日?」とか子供に聞いて、子供は知らないから「わかんなーい。パパ何してるのー?」みたいな呑気なやり取りをしていました。

「パパの誕生日なんだよ」と本人自らいうも、3歳の息子は「バーカバーカ!」と今お得意のバカバカ攻撃。

しびれを切らした元夫は「娘に代われ」と電話を交替させて、「今日パパの誕生日。何かいうことないの??」と。娘も「わかんなーい」とか言って最終的に、「おめでとうでしょ!!」と自分で言って子どもたちに言わせようとしてたり。

 

そういう感じがあまりわからない。

自分の子供に、親(自分)の誕生日を祝われたいという気持ちがないから、大人は自分で自分の誕生日を祝えば?と思ってしまいます。子どもの言ってくれる「おめでとう」は嬉しいけど、それは言わせるものじゃないし....。

話が逸れましたが、子どもが生まれて、子どもに対して「自分自身を愛してくれ」という執着みたいなものを感じて、なるべくその気持ちを外で昇華してほしいと思って、「仕事をしてほしい」と思っていました。

 

彼自身が受け取れなかった親からの愛情。それは私も、子どもたちも注ぐことはできないし、求められても困るよ、と思いました。

結婚する前は、そういう部分も含めて相手を受け入れていきたいと思っていたのに。

そんなことはできないことに気づいてしまってから、相手の感じている不全感、不足感をこちらに向けるたびに「歪んでる」と思ってしまっていました。

 

今となっては、距離もあって過度に要求することはないものの、やっぱり垣間見えるものがあるのでこの問題は根深いなと思います。

屈折してるのは、私もある部分であるし、彼もある部分であるのだろうと。

 

それ自体、致し方ないけどその自分の歪みを認識する客観性とか傾聴できる心の余裕は持っていたいものです。