ゆるすってなんだろうか
今日は2015年8月9日。
つまり長崎に原爆が落とされて70年目です。
毎年、鐘の音とともに「黙祷!」というスピーカーからの声と頭を垂れる人々の姿が目に焼き付いています。
でもそのシーンを思い出しても、何か特別に戦争の悲惨さとか、原爆の恐ろしさと直結していかないというか。
もちろん、直結する人もいるとおもいますが、私の脳は何かの式典の一つとインプットしており、戦争となかなか結び付けられずに毎年見ている光景です。
そんな私でも、まがりなりに30数年生きてきて、やっぱり絶対ダメなことなんだと心を込めて、語気を強くしていうのは、こういう形で映像や文章で戦争のことを毎夏、毎夏、いや夏と言わずに目にしてきたからだと思います。
さて、長崎といえば軍艦島が世界遺産に認定されたというニュースがありますが、その前にはキリスト教会群が世界遺産に認定されました。おそらく多くの人がイメージするのは、ちゃんぽん、天主堂(キリスト教会)などでしょうか。
そのことからもわかる通り、キリスト教(特にカトリック)が歴史的にも長く、色の強い地域です。
人口当たりの教会(プロテスタント)は沖縄県がもっとも多いのですが、クリスチャンにとって長崎は信仰のルーツみたいなところもあり、古くは戦国時代(これは主に京都ですが)、江戸時代の弾圧、そして明治時代の弾圧と、キリシタン弾圧を乗り越えて今の日本のキリスト教会があります。
その長崎に落とされた原爆は当然、教会も破壊しました。
被爆マリア像といわれるもの
さて、そんな長崎のキリスト教の戦後の歩みは一貫して「ゆるし」と「平和」がテーマだったと聞いたことがあります。
キリスト教って愛の神様だと言われていますが、愛ってなんですか?って聞かれていろいろな答えが言えると思いますが「ゆるし」も重要な答えの一つです。
「あなたがたも、心から友達を赦さないなら、天の父も、あなたがたに同じようになさるのです。」(マタイ18:35)
ほかの訳では友達の訳が「兄弟、brother」となっていますが、要するに「隣人をゆるさない人は神様にもゆるされない」という話です。でもここだけ読んだらなんとも救いようのない話。
この前にはちょっと壮大な話が書かれています。
ある人が30億円もの借金を王様にしていました。
必死で返そうとしましたが一生働いても返せないと判断し、王様に『借金が返せません』と泣きつきました。
王様はかわいそうに思って『いいよ。全部帳消しにしてあげるね』と言いました。
ところが借金をしていた人は、その足で自分に60万円ほど借金をしていた男のところに行って『今すぐ金を返せ』と脅迫しました。
それを知った王様は借金を免除してやった男を呼びつけて、言いました。
『この人でなしめっ! おまえがあんなに頼んだからこそ、あれほど多額の借金も全部免除してやったのだ。自分があわれんでもらったように、ほかの人をあわれんであげるべきではなかったのかっ!』
これは「ゆるす」ということのたとえ話で聖書ではものすごく有名な話です。
人は「これは罪が重くてこれは軽い」。「これくらいなら許されて、これ以上はアウト」と勝手な基準で人を裁きます。
社会的犯罪(人殺し、窃盗、レイプなどなど)に対して法が裁くのはこの世界の秩序を守るためで、そのことを聖書は否定していません。
だけれども、冤罪が起きたり、昔は禁錮3年だったものが今は禁錮15年とか同じ罪でも時代と解釈で変わっていきます。その変化が正しいのか、間違っているのかわかるのは後の時代になってからです。
コミュニティーを守るための法律も完璧はないということです。
冒頭に貼ったリンクにある原爆の被害を受けた男の子は、幼い弟を原爆で亡くし、自分は生き残り、何度自分を、アメリカ人を呪ったことだろうかと思います。
私だったら、原爆に関わった全ての米兵を一列に並べて連射で片っ端から殺めたいと思います!で、その悔しさと怒りで何年も眠れなくなりそうです。
ゆるすなんて、きれいごとだと思えます。
神様だけしかできないことでしょ。
私は神様じゃないし、ゆるさないよ。って。
たぶん、究極的にゆるすことができるのは神様だけです。
でも、「だから私は人をゆるさずに憎しみを抱えて生きていこう」というのはやっぱり違うんじゃないかと思います。
嘘をついたり、誰かを知らない間に傷つけたり悪口を言ったり。この地上では罪に問われない罪をたくさん犯しながら生きている人は、借金まみれの男と同様に神様の前では何回処刑されても足りないくらいの犯罪者です。
でも、「そういうあなたの弱さを、罪深さを私は全部背負うから。十字架にかけて私が死ぬから、あなたたちは罪のない存在として生きなさい」と示したのがイエスキリストです。
じゃあ、どうして頼んでもいないのにイエスキリストは痛い思いをして十字架にかかったのか、神様は「ゆるしなさい」ということを説くのか。
それは人を憎みながら生きる生き方はあまりにもつらく苦しいから。人をゆるす生き方は最初は痛くて苦いけど、必ず平安が共にあるからだと思います。
もしも原爆を落とした米兵を日本人の手で八つ裂きにしたとしても、愛する家族や友達を失った悲しみは消えません。
もうぶつけることのない怒りと新たな憎しみが沸くだけだと思います。
ゆるす決断より、ゆるさない決断のほうがはるかに楽で時には賛同者も得やすく、ゆるさないことは正しいとすら思ってしまいがちです。
でも、究極的に、長い目で見た時にはゆるすことで癒されることもまた事実です。
自分の力で人をゆるせる必要はない。そのためにイエス様がいるんだから。
ゆるせない気持ちもイエス様に聴いてもらえばいい。頼ればいい。
おそらく、長崎のキリスト教の歩みは深い悲しみと痛みの中で、それでもゆるす決断をした上に今があるんだと思います。
だからこそ2度とあっちゃいけないって心底思います。