「消費」と「消化」
最近、仕事について考えてしまいます。
そのきっかけはこの記事。
ferret-plus.comちょうど、医療ソーシャルワーカー以外に校正の仕事もさせてもらっていて、イケてないなと思う見出しを好きに編集しています。文字数、語呂、語感を考えながらいいフレーズが出てきたときは「お!」と思って楽しくなります。
やっぱりこういう仕事は辞めたくないなと思いながらありがたくやらせてもらっているのですが、こんな自動生成とかで記事を作る時代に?と思うと少しゲンナリします。
編集者一本できっと働いていくのは安定からは程遠いし、こうした新しい技術に両手を挙げてwelcome!って思えない自分がいて、その意味では今のMSW(医療ソーシャルワーカー)は選んでよかったと思います。
さて、そんな仕事。
大きく分けて「消費」と「消化」に別れると思いました。
消費、とはユーザーが消費していくもの。サービスであれ、プロダクトであれ、有形無形問わず、人が消費していくものがありますね。
フード、アパレル、エンターテインメント、ネットコンテンツ......
身の回りのほとんどが消費財です。
一方で消化されるものは、教育、医療、福祉、フルオーダーメイドのものなどでしょうか(サービスでも)。
教育も受験塾などは消費に近そうですが、たとえば中学の授業で何時になく真剣に先生が語った憲法の話、戦争の話などは自分の脳裏に、心に焼き付いていて思想の血肉になっています。
医療も消費されるものもあると思います。美容のためのものなど、自分の欲求を満たすために消費していく側面が強そうです。一方で、疾患を治すためにつらくても受ける治療はやはり身になっていくので消化していくイメージに近そうです。
公共性の高いものほど消化されるイメージがありますが、たとえば自分のこだわりを実現させていくようなサービスは、消化、に近いでしょう。
たとえば子どもの一歳の誕生日には朝からこの服を着せて、このご飯を食べてここに行って、あそこで写真を撮って...思い出の地はインスタ映えなんかしなくても大事な場所で、AIが割り出せないこともまだまだあります。
後々まで残るものを「消化」と考えると、こうしたものは人の手の中で残っていくでしょう。
business.nikkeibp.co.jpここでおっしゃっている内容も合点の行くものですが、
「クリエイティビティー」「マネージメント」「ホスピタリティー」に価値の源泉がある仕事は残るでしょう。
教育や医療、福祉など多分にカスタムされる必要のある分野においては、まだまだ改善の余地もあるし、新しい仕事も生み出せそうです。
医療マネージメントってまだ誰もやってくれていない気がします。せいぜい、少し気の利いたMSWが間断ない受療援助などをしているくらいで。
人だからこそできることをもっと考えて取り組んでいきたいと思います。
これは、機械にとって変わられそうな編集の面においても。
エッジのきいた文章や誰かに向けて書かれた言葉など、機械では分析し得ない「その先」の言葉、表現があってそれこそが読み物の醍醐味です。
機械に取って代わられることが脅威ではなく、自分にできること、自分の持つ表現をいかにスケールさせていくかがこれからの時代に生きる鍵かな。
閑話休題。
対話を諦めた日本の首相ですが、私はそれでも言葉を通して人とやりとりをしていきたい。言葉をなくした行動化は「いじめ」や「虐待」の発芽です。
それは秋葉原無差別殺傷事件が明らかにしているのに。
愚の骨頂。