子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

子どもを産む、育てる

 何年か前からcakesが好きで読んでいる。全記事は読んでないけど、小説だったりエッセイだったり対談だったり。

漫画家の田房永子さんを知ったのもcakesを通して。

Twitterを見ていたらとあるツイートに出会い、ちょっと考えさせられている。

 

  • 毒親に育てられ大人になっても当時のトラウマを脱却できてない中、無計画に子供を作った
  • そんな人が「男社会がしんどい」って、何今更な事発信してるんだ?
  • 子供を産んだ時点で自分の苦しみを次の世代に与えといて

という言葉の前でまだ今も考えている。

 

田房さんのこともこれをツイートした方のことも存じ上げないのでとやかくいうことはできないし、本当に言いたかったことは何だったのか、私の能力ではツイートからは汲み取れそうにない。

ただ、子どもを産み、育てることについてちょっと自分に引き寄せて考えてみた。

 

子どもを妊娠した時は、正直計画など立ててなかった。子どもは欲しいな、くらいの漠然とした気持ち。計画をしたとしてもそのタイミングで授からないカップルも周りにいるし、授かったのに死産になってしまった人も身近にいる。

なので妊娠から出産までの一連は非常に個人的なことで当事者以外が「おめでとう」や「体大事にね」と言った類の言葉以外をかけようもないと思う。まして、見ず知らずの方の妊娠出産が計画か無計画かなんて。

知りようもなく、知るはずもなく。

 

でも生まれた子どもは誰とも違う固有の人格を持ち、生命を持ち、存在している。だから親としての「距離」というのは結構難しいけど大事ではないかと思っている。幼い頃は子どもを心理的にも肉体的にも守り育てることが第一課題だけど、少しずつ子どもが「自分を管理する」という力をつけていくことも重要になると思う。

子どもが自分で何かを選び、決断できる力をつけたり、うまくいかない時にも砦となったり防波堤になったりして守ったり次に進めるような励ましができたり、親に求められる役割も質が変わってくる。

よく、家族は子どもが出会う最初の社会というけど、成長に伴い子どもの世界、子どもの社会というのもどんどん広がっていく。

人は社会的存在でもあると思う。

毒親に育てられる」ということの深い深い傷を身近な友人にも、そして元夫にもみてきたから「傷だらけで子どもを産み育てて世代間連鎖を生むのではないか」という懸念はすごくわかる。

 

でも「自分の親は毒だった」し、「自分はそれによる傷を受けていてこれを修復していきたい」という考えがあるかないかでだいぶ違ったものになると思う。

夫と歩めないと思ったのは、結局夫が親に定められた人生を歩むことにして、親から受けたたくさんの傷を親に褒められることで克服しようとしているように見えたから。そして実際にそうしているから、やっぱり一緒に歩めないと思った。

 

もし自分の過去を深く見つめる忍耐力や目を持っていて、変わりたいという気持ちがあったとしたら別れてなかっただろうと思う。所詮、人を変えることなんてできないし、自分が変わるとすれば共依存になるくらいしか選択が残されてなくて、それだけは避けたいと思った。

 

だけど、田房永子さんのエッセイや対談や漫画を読む限りで、自分を見つめていらっしゃるし子育てでも気づきを言葉にしていらっしゃってて、発信している。こういうことの繰り返しで過去は過去として事実を認識しつつ、今とこれからに向かっているんだろうなと、そんな風に私には見えている。

 

そして、当たり前とされている社会の慣習や価値観に「ちょっと変だ」という指摘をして、今とこれからの人たち(こども世代も含め)の生きにくさを少しでも変えていければというところが発信の出発点ではないかと思う。

 

本当のところなんて誰もわからない。けれども、現に生きてる命に対して「無計画に」だとか「苦しみを与えて」と断言してしまうことにはやはり戸惑った。

 

強い言葉は、強い共感と強い反発を生みがちだと思う。

私の夫も強い言葉を好んで使っていた。

でも人の心はもっとあやふやで曖昧で、適当という側面もある。

 

子どももまた、矛盾だらけで生きている。

矛盾を指摘して論理的にしかることもあるけど、通じにくい。でも「頭ではわかるんだけどね」くらいでわかるようになっていればいいかなと思う。

そして保育園ではそこそこに下級生に優しく、先生には上手に甘えて過ごしてる子供達の様子を見ると「社会性が親の手を離れて育っている」ことになんだか不思議な気持ちがする。

親の影響はすごく大きいけど、子どもは子どもなりに親以外の存在からも影響を受けつつ育っていく。