小学校時代の私の中の暗黒時代の話を以前も書いた。
hopeforchildren.hatenablog.com
そんな小学校時代に印象深かったもう一つの話。
それがタイトルにも書いた「差別と区別は違う」という話だった。
小学校5-6年の頃だったと思う。
外部からスピーカーを招いて話を聞く機会があり、その前に「お前ら静かにしろ」という話の一環で、担任ではなかった男性教諭が「お前らのことは差別しない。だけど区別するからな!」と怒鳴った。私には怒鳴ったように聞こえたけど、大きい声で言っただけかもしれない。
今となってはどっちでもいいけど、その時に思ったのは
「そんなの詭弁だよバーカ」だった。
もちろん心の中で。
その話は中学生になっても高校生になっても、そして中年に差し掛かる今に至っても思い出してはムカつく話になっている。
この、「差別と区別は違う」の話が出た文脈は、外部スピーカーの話を聞くときにおとなしく聞いてない人と聞いてる人は座る場所を分けるとか、あとで呼び出すとかそういう類の中での話だったと思う。
でも、そこの「区別」には先生の恣意が大いに入っていて、要は「お気に入りとそれ以外」の区別だったし、その区別は差を生んでいた。
先生に邪険にされる児童は子供達の間でも多少いじめっぽい目にあっていた。
区別って、出席番号の奇数と偶数とか、今日は赤の洋服を着てた人と黄色の服の人と緑の服の人、みたいな客観的で明確な区分けができるものには通用するけど、そうした記号じゃないものを区分けに使えばそこには必ず、人の主観、バイアスが入ると思っている。「うるさい人」とか「勉強ができる人」とか。
勉強ができるって分けられそうで意外と分けにくい。
科目は?いつの時点で?など尺度でコロコロ変わる可能性がある。
差別の対義語で区別を使った先生はさも偉そうに、正しいことのように話していたけど、やっぱりおかしい話だったなと今も思う。
私も本当にねちっこい性格なんだろう。あの時の話を今だに克明に覚えてるんだから。
でもこの話はその後、言葉の使い方とか定義とか、私自身が立ち止まったり振り返ったりするきっかけになったと思う。誰かに偉そうに何かを話したくなる時、そのときに自分が発信する言葉や言い方に不遜なところはないか、誤りはないか、と。
そんな話を急に思い出してまた書き留めておいた。