子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

宗教について考えた。

ネット上というかTwitterで知り合った方々には日々励まされたり示唆を与えてもらったりと何かとお世話になっている。

そんなネット上の知り合いの方の投稿から写真家の幡野さんの記事に飛んで、いろいろと考えさせられた。

幡野さんの話は私が100個話すより記事を読んだ方が早い。

 

幡野さんの記事を読みながら、ひとしきりこの女性のことを考えて、信じることについて考えていた。

日本人はあまり宗教を語らないし宗教教育を受ける機会も少ないのではないかと思う。

私は中高とミッションスクールに通っていたこともあって、キリスト教についてはかなりガッチリと、他の宗教についても表面的なことくらいは得る機会があって、「世界は広いんだな」と思った。

 

自分がかつて幡野さんを誹謗中傷したことで自分が癌になったんだと(自分を?)責めている女性は「悪いことをしたら天罰が下る」という信仰を持って生きているようで、読んでいて苦しかった。

この記事を読んで、聖書の中に出てくる、目の見えない人のことを思い出した。

エスはその人に向かってこういう。「あなたの目が見えないのはあなたが悪いわけでも、あなたの親(祖先)が悪いわけでもない」と。

エスの時代はある人の病気はその親や先祖の行いが悪いとか祟りとか信じられていたらしい。

今でも祖先の因果が子に...などと証明しようのない、救いのない言葉を信じる人が一定数いる。

 

でもそれってどうしようもなく救いがない。そもそも、幡野さんを誹謗中傷した女性は、自分がした行為そのものには全然目が行かず、「癌になってしまった自分」を起点に「あの時の自分の行いが今、自分に降りかかっている」とどこまでも自分と天罰の間を行き来してる感じがした。

なんだかな。

 

自分が信じる言葉、信仰を持っているものは救いがあるものであって欲しい。それに自分と神の二者だけで完結しないで、緩やかに人や世界とつながっているものでもあって欲しい。

 

時々、病気や災害が「神様からの啓示だ」という人がいる。そういうこともあるのかもしれないけど、そのこともまた誰も真実の真実はわからないのではないかと思う。人はちっぽけで弱い存在でもある。

神様とは全然違う。だから人間にはわからないことが山ほどあって当然だと思っている。

人は何でもかんでも知りたがったり答えが欲しかったりするんだけど、所詮、神様じゃないからわからないよねということがあって当然だと思う。

 

ただ、「私にはわからないけど神様にはわかっている」という状況や状態は、私にとってはちょっと救いでもある。だから、自分自身に何か起こった時にその意味はわからないでいるけど、そのことで誰かを責めたり自分を追い詰めたりする気持ちから少し解放されている。