子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

苦手なものと向き合う

Twitterを眺めていると、時々ものすごく苛立ちや怒りや侮蔑を込めて投稿したんだろうなと感じるツイートに出くわすことがある。

静かにウォッチしているのは、同業者のものだけど、有名な人の言動がどうにも気になるみたい。

私も全面賛同はできないけど、「いうほどかな?」と思うので、何にこの人は怒りを感じるのだろう、苛立っているのだろう、とツイート主さんの価値観や視点を分析したり、観察したりしている。

 

かつて結婚していた時、ずいぶん夫の言い分に振り回されたり振り回されたくなくて防御していた。

尊敬するメンターには、「自分の中で感情が揺り動かされるところにこそ、自分の課題がある」と教わって以来、自分が怒りを感じたりひどくがっかりする時、私の中にどんな課題があったのだろうかと考えることにしている。

今のところ、あまりこれと言った答えはないけど、子どもが生まれてから子どもに向かって一番注意しているのは「不衛生ではいけない」ということだと思う。

外から帰ってきてすぐにシャワーをするとか最低限手洗いうがいはmustであるとか、床には絶対に座らないとか物を置かないとか壁に寄りかからないとか...。無数すぎる衛生にまつわるあれこれ。

 

ただ、まあ衛生については感情が揺り動かされる感じでもないか。

 

ひどくがっかりするのはなんだろう。娘がお弁当を半分残したけど「やれやれもったいない」とは思うものの、怒り心頭にはならない。

元夫とのことでは「話の通じなさ」が私の怒りだったな。でも最後はもう諦めてたし怒るも何も、どっちかというと「まだいってる」とか「本当に学習能力とかないんだな」とかそんな感じで自分の方でもシャットダウンしていたなと思う。

 

最近は、瞬発的に子どもに怒ることはあるけど、例えば命に関わること(道路を飛び出すとか)、人に危ない思いや嫌な思いをさせることくらいで、怒り続けるとかもなく、苛立ちが止まらないというのも本当にずーーーっとない。

 

記憶装置が若干壊れてるのかもしれないけど、とにかくすぐに忘れる。いいことも忘れがちだけど嫌なこともいい感じに忘れていく。

 

あとは、患者さんが不利益を被りそうなとき、被ったときはちょっと本気で怒ってたりする(労基法を守ってない職場で働いてて倒れた患者さんとか)。

私の中の課題は、多分、社会正義とかそういうものへの強い気持ちがあってそれに反していると感じるとちょっと熱を帯びてしまうところ。

これは良い側面もあるのだろうけど、やっぱりそういう自分が増長されるといいことばかりでもないし、そもそも私のイメージしている社会正義やその価値観は私の中では輪郭を持つけど、他人には共有されていないし、しにくいし、明言されて明文化されていたとしても、その言葉からはいろんな人がいろんな色で、解釈でイメージを持つ。

 

だからAさんが「◯は悪い」と判断した時、

Bさんは「◯の中にもXやZが含まれていて◯が悪いというのは否定だ。否定することに反対する。Aさんは独善的だ」と反論することもあるだろう。

 

正確にはきっとどっちも間違ってはいなくて、価値観やしてんの多少の違いや言葉から何をイメージするかといったことの違いに過ぎないとしても、容易に対立構造で物語れてしまう。

 

苦手なものと向き合う時に、自分の中の何が揺さぶられているか、反応しているかを知ると、自分が大事にしているものも自分が乗り越えていない壁も見えてくることがある。

幾つになっても感情が動かされるシーンはあるし、うまくいかない人間関係もあるし、壁にぶつかることもある。でもそういう時に考えることから逃げずに、今何を感じて自分は何を思ったのか、それはどこからくるのかってことは考え続けていきたい。