子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

【敗戦後75年】牧師だった祖父の話

アジア太平洋戦争の敗戦宣言をしたのは8月15日。

その日は長らく「終戦の日」として日本では記憶されている。

戦争をみんなどのように記憶しているのだろうか。私の父方の祖父母は明治生まれと大正生まれ、母方の祖父母も大正生まれだから戦争が始まった時にはすでに学生だったり大人だったりした。

 

父方の祖父は私が小学校高学年とか中学生の時にすでに80代とかだったと思う。

そのころの私にとって、最大関心事は「戦争の頃、おじいちゃんはどうしていたのか」ということだった。今までどこにも残したことはなかったけど、聞いた話を覚えている限り、書いてみたいと思う。

 

父方の祖父(以下祖父)は九州の生まれだったらしい。どのタイミングで上京したか、どうして上京したのかはよくわからないけど、九州時代にキリスト教に触れたのか、東京に出てきて触れたのか、そこもよくわからないけど、私が知っているのは銀座に住んでいたという話だ。

貧乏学生だった祖父は、服部時計店で下宿させてもらいながら青山学院大の神学部に通いっていたという。

本当かな。

あの頃は「へー」て聞いてたけど、服部時計店て今の和光の場所だ。あんな銀座一等地に住んでいたのか。とにかくそうだと聞いているが、父にも確かめてみよう。

なぜ服部時計店だったかというと、銀座教会が近かったから、とのこと。

戦争が始まる前、1930〜40年頃に関東地方の教会と幼稚園を任されることになって、その時から亡くなるまで同じ場所にいた。

キリスト教会はあの時代、「敵国の宗教」で「非国民」扱いだったに違いない。

祖父がどんな思いで教会を運営していたか心の奥底はわからないけど、根掘り葉掘り聞いても「覚えてないな〜」としか話してくれなかった。

祖母はまだ少し覚えていて、礼拝堂の中に日の丸を掲げなくちゃいけなかったこととか、憲兵隊が礼拝の時に教会のすぐそばに立って見張っていたこととかを覚えていた。

 

ちなみにキリスト教の中でもプロテスタントは複数の教団教派に分かれていて、微妙に、少しずつ考え方や強調することに違いがある。大枠は同じなんだけど、教団教派でまとまりがちだし、微妙な差異はそれゆえに結びつきにくい。

カトリックイエズス会とかドミニコ会とかあるけど、カトリックの場合はそれをまとめる総本山としてローマ教皇がいる。そしてカトリックすべての教会で年間スケジュールに沿って礼拝プログラムがあらかじめ決められている。

だけど、プロテスタントはそんな決まりはない。

ただ、戦争中はプロテスタントも11部からなる「日本基督教団」にひとまとまりにさせられた。祖父が属していたのは第1部の教派だったから、きっと国家命令に右へならえだったんだろう。

 

そのことは特に10代の私にとって「ちょっと嫌な感じ」という印象を残した。ちなみに母方の祖母が通っていた教会は、戦時下で弾圧に遭っていて、牧師も投獄されたという。

同じキリスト教を語りながら、極端に言えば国家に加担する教会と弾圧される教会とがあったということだ。

 

祖父は多くは語らなかったけど、結婚したばかりで子どもも生まれるという時期の話なので、家族を守ることを選んだのかもしれない。もしくは自分の思想信条にそこまでズレがなかったのかもしれない。

とにかく、戦争の間、祖父は特高に捕まることもなく過ごした。正確には一晩、連れて行かれたらしいけど嫌疑不十分だかなんだかで釈放されたとか。

理由はよくわからないけど、兵隊にも行かなかった。

 

こういう話を振り返ってみると、「守るのに必死」だったのかもしれない。

戦争の記憶と言っても「覚えてない」というのは嘘でもない本当のところなのだろう。

戦後の話をすれば、教会ということでGHQが缶詰とかお菓子とかくれたとかそういうこともあったらしい。

祖父にとって、暗黒時代の話よりもその前後に起きた嬉しい出来事、楽しい出来事の方がずっと印象深いようだ。

戦争真っ只中の1943年に幼稚園の子供たちとキャンプに行った写真もあったりして、戦時下だけど「日常」でいようとしたのかもしれない。

 

何かを信じる自由、信じていることを表明する自由、話すことの自由...

憲法で守られている権利はたくさんの人の苦しみや痛みを経て得られたものだ。

祖父の話を思い出すたびにこの憲法に守られているんだということを感謝するし、日本国旗をもう教会に掲げなくていい時代に生きているってことにも感謝している。