母方の祖母(以下祖母)は一家の長女だった。お父さんは薬剤師さんだったと聞いている。だから小さい頃は割とお嬢ちゃんとして育ったらしい。ただ、その祖母の父か早くに亡くなってしまい、立て続けに祖母の母親も亡くなってから、祖母は働きに出て生活をしていた。
戦争が深刻になってから食べるものや仕事もあまり無くなってきた頃、親戚のおばさんに招かれて、妹と満洲に疎開することになったという。
ただ、「食べ物もあるからこっちにきなさい」と言われて行ったら全然実態は違ったらしい。
ただのお手伝いさんとしてしか見てもらえず、小さい頃からお嬢ちゃんで育った祖母にあたりが強く、嫌味を言ってイビてったらしい。
終戦と分かって、満洲にもいられないとなって祖母は朝鮮半島を経由して着の身着のままで日本になんとか帰って、母方の叔母宅で暮らすことができた、という。
祖母にとっての戦争は、爆撃とか空襲の恐怖ではなかったけど、異国の地で肩身の狭い思いをして、命からがら引き揚げて、今、今日を生きることで必死だった日々なのだと思う。
母が思い出して話してくれる若い頃の話は、戦争の話ではない。
もっともっと小さい頃の話だ。
お父さんが夕方仕事から帰ってくると、晩酌をするのだという。
それで、お母さんはお父さんの前でお座敷天ぷらを作るのだ、という話。
目の前で揚げた天ぷらをサカナにお酒を飲むというお父さんの話。
教科書で見るような家父長制だなと歴史話を聞く感覚だった。
祖母に「女の子らしく」とか「女性なのに」とか言われると腹立たしかったけど、今はそういう祖母の価値観がどこからくるのかもわかるし、祖母なりに自分が生きていくための術として家事をきちんと取り仕切ることに長けたんだろうと思う。
新型コロナさえなければ、まだ元気だし会いに行きたい。もう私の顔も覚えてないだろうけども、私は祖母から聞いたたくさんの話も、満洲の出来事も、帰りの船のことも、覚えている。
だけど、戦争が壊した祖母の青春は帰ってこない。