子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

新たに問題提起がSNSから発せられる時代。

差別について考えたのはいつだろう。多分、小学生の時に大嫌いな先生が「差別と区別は違う」とかいう詭弁を垂れて、少しソワソワしやすい男の子をいじめてた暗黒時代だったと思う。でも、そのころは自分が差別する当事者とか考え及ばず、その後に中学、高校で韓国併合の歴史とか関東大震災で受けた朝鮮人の差別とか日本人がアメリカで第二次世界大戦中に体験した収容所の話とか、歴史が好きで勉強すると近代史はもれなく差別の歴史だった。

日本国内の同和問題、穢多非人のことなどなど。

もう、枚挙にいとまがない。

差別たっぷりのこの世界の歴史と現実がある。

普段からそのことばかり考えてて...なんてことはないけど、私の苦手なタレントさんがナチュラルに「農作物を盗まれました。許せない(けど許した!)」という投稿と前後して「近くの工場で働く外国人が犯人だろうと目星がついている」と追記していた。

投稿した本人は全くの被害者であり、本当に何も悪気もないし、なんなら「人としてダメなものはダメだろう」ということで書いたら、見事に燃え盛る炎と化していた。

 

私はあのタレントさんが差別主義者だとは思えないし、きっと彼は外国人の友達も多くいるんじゃないかと思う。

日本人も日本人以外にも、友達がいっぱいいそうだな〜と思う。

 

そして日本語がうまく話せないとかそういうことも「笑っちゃうよね」と笑っていて、それは面白いから笑ってるんで差別意識なんか全くないです!!!って言うんだろうな〜(言ってたね10年も前に)と思う。

で、きっと「差別はしないけど区別はする」とかも平気で言うんだろうな、なんて邪推してしまう。

 

言葉一つ一つには差別のカケラもないのかもしれないけど、様々な事象を切り取る、切り取り方はやっぱりそこにその人の興味・関心・価値観が表れるもんなんだなと言うことにも気づかされた。

 

昨今、農作物や畜産物が盗まれて、それが外国人の犯罪だと聞くと私は実際に盗んだ人よりもその背後にどんな組織が関与しているのかしら??と気になるし、もし個人が盗んでいるのだとしたら、どんな境遇で日本にきたのだろう?とかその人の背景やそこに至るまでの道のりが気になる。

私が気になることは他の人が気にならなかったりすることはいくらでもあるし、彼の切り取り方と言うのもいかにもあのタレントさんらしいものだなと思っている。

 

私は当事者じゃないからそんな悠長なことが言えるんだろ、とも言われそうだけど、もし自分の身近にあったとしてもやっぱりそこに手を染める人の成り立ちはとても気になってしまうだろうな。

SNSというツールのせいかわからないけど、読んでいると投稿に至るまでの彼の思いとか感情とかに「許しました」と書きつつも「許さん」という鋼の思いが見えてくる。

「そもそも差別という概念がない」と言い切る前に、意図せずとも無意識に人は人を差別してしまうという情けない人の本性に向き合わなくては...と思っている。私の中にもそういう芽はいくらでもあるし、歴史をいくら勉強しても現実社会の中で出会う人に対して、なんの感情もなくいられるか?というとそれはなかなか難しい。

 

話はそれるけど、家の近くでずーっと路上生活していてサンタさん並みに髭を蓄えて目は血走って本当に怖いな〜もう!って思っていた人がいた。

いろいろあって彼が入院してから彼の担当になったのだけど、驚くくらい素直でいろんな苦労が会ったことを知った。今の仕事では、斜めのものが真っ直ぐされる感覚と、今までの自分の目がいかに濁り腐っていたかを知る恥ずかしいことの連続でもある。

 

差別感情って何も人種間だけにあるものではない。

いろんな「差」を感じる中に人は拒絶や排他の意識を無意識に持ってしまう。

生存本能なのかもしれないけど、自分の中にあるそれを認めることからでないと、差別は超えていけないんだよ。それは心底思うよ。