子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

死ぬこと・生きること

芸能人の方がまたお亡くなりになった。

私と同い年だった。あんまり好きじゃない女優さんだった実は。

だけどここ数年の美しさと活躍ぶりには本当に目をみはるものがあって(私が目をみはったって彼女のキャリアにも美しさにも貢献しないが)「残る女優さんていうのはやっぱり全然違うんだな」と思った。私があんまり好きじゃなかったのは、何かの役柄のイメージに引っ張られてただけで、役が本人と混同するほどに演技が素晴らしい方だった。

 

特に、プレモルのCMがすごく好きだった。

CMって一番カジュアルに俳優さんを見ることができる。

私の好きな写真家の幡野さんは「死を止めないし、死にたいという人に死んじゃダメなんていうのは自己満足に過ぎない」と仰っていて、そう考える人もいるのか...と思う。

だけど、その昔、毎日死にたかった頃に死ぬという行動すら面倒臭くて誰かに殺してもらえたらな、生きたままでも臓器移植とかでこの意味のない人生が人の役に立てたらな、と考えていた。

20年くらい前のことで今となっては詳細は忘れたけど、その頃親友に「今までありがとう。もう生きてる意味ないし、私みたいに価値のない人は存在しても無駄。死にたい」といった趣旨の手紙を書いて送ったことがある。

今思えば大迷惑な話だけど、その友達が「死んじゃだめだよ」と言ってくれた。

こんなバカでアホで生きる価値のない人間に「生きてていい」っていう人がいるんだ。とすごく驚いた。

死ぬとき、線路から飛び降りるとかビルから...とか考えたけど、どの死に方も多かれ少なかれ家族に迷惑がかかって「死ぬまで(死んだ後も)迷惑かけてしまう」と結局、死ぬ方法を緩く模索したり、動くこと自体を面倒に思ったりして半年くらいだらだらと生きていた。

 

心の糧は姉が貸してくれた小説やエッセイや...。

言葉にはずいぶん救われてたと思う。

大きなきっかけはなんだったかなと思うけど、季節が変わっていつの間にか学年が変わって、なんとなく「就職」を意識しなくちゃいけないかなって頃から漠然と変わっていった気がする。

あれが鬱だったかわからないけど抑うつ的だった。精神科にもかかってたけど信頼してないから相談もしないし「別に」って思ってた。

 

なんか全てが投げやりだったな。

あれから倍の年齢を生きてきて、今の自分は死にたくないし、長く生きたいし、健康でいたい。

これをいつも思っている。

それに自分の大事な人が死を選ぼうとしていたら、それはとめたい。

苦しみを共有しても一緒に背負う事に限界があるのも知ってるし、所詮自分の悩みは他人が理解してくれるものでもない。

だけど。

あの頃死んでいたら今の私は可愛くて悪戯好きな子どもたちを育てることもできなかったし、好きな音楽、好きな仕事の楽しみも知らなかったままだった。

人生には辛いこともたくさんあるし、嫌なことも苦しいこともたくさんある。

私など甘いんだといつも思う。

 

だけど、やっぱり悪いことばかりでもない。

生まれる時を誰も選べないように、死ぬ時も究極は誰も選べない。

 

精神的に病んでしまうと頭でわかってるのに気持ちが追いつかなくてどんどん追い詰められていく。

それもわかる。

それでも「生きてこれからもいっぱい時間を過ごしたい」と言ってくれた友達の言葉は私には心から支えになった。

「生きてる意味なんてない」という気持ちは拭えなくても、今をだらだらと漫然と生きてるだけでいいって思う。何もできなくても、何かをしてなくても。

自分の価値なんて100年後にはほとんどの人が藻屑なので、別に何かを成し遂げてなくても、ただ好きなご飯食べて好きな音楽聴いて、寝て...生きていればいいんじゃないかなって思う。