子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

役に立つ/立たない

つらつらとツイッターを眺めていたら「人の役に立つ」とかそうじゃないとか、そういうことが出ていた。内容としては、役に立たなくなってそういう人が許容される世の中であってほしいということでそのとおりだなと心底思った。

 

そして改めて「役に立つ」ってなんだろうかと思った。

子どもが生まれたときに「この子がどういうふうに成長していく子どもであれ、もう生まれてきてくれたことだけですべての結論が出ている」と思った。すなわち私には可愛くてしょうがなくて、愛する以外に選択肢がない。

だから、この子に何ができるとかできないとかは私と子どもの関係においては何も揺るがすものはないと思った。

家族って、というと抽象的で大きな主語だけど、私と子どもの間においては(おもに私から子どもへの矢印だけど)役に立つとか立たないとかは全然関係ない。

 

よく、患者さんが「自分なんて家族の足手まとい。役に立たない人間です」といっておいおい泣いたりする。おもに男性に多い気がする。

高次脳機能障害のせいもあるだろうけども、価値観が「役に立つ」とか「立たない」とかで振り分ける傾向にあるのかもしれない。振り分けられてきたのかもしれない。

でもそれってなんだかすごく変なんじゃないか、と思う。

自分が誰かの役に立っているという実感は自分には全然ない。母親としても、専門職としても。

仕事ではできる人なんていくらでもいるし、子どもにももっともっといろんな関わりや愛情を上手に注ぐ人もいっぱいいると思う。

 

だけど、あんまり深く考えずに生きてきた。多分、役に立つとか立たないとかで考える習慣がないからかもしれない。

 

誰かにとって役に立つことが、他の人にはなんの意味もなかったりその逆もまた然りだったり。

役に立つとか立たないってそんなふうに移ろいやすくてとらえどころのないものなのではないか?と思う。

 

年末。生活保護を「それだけは絶対に受けたくない」みたいな方がいる。一体どんな位置づけなのだろうと思うけど、生保を受けるなんて基本的人権だろうとこちらは思っていて、日本で生きていく以上、ありとあらゆる税金を課されながら生きているのだから、働けることが全てでもなく、病気や失業などいろんな事情で生きていくお金がなくなったときに受けるべきものだと思う。

生保も拒否して受けずに生活しようとしていると、無保険になったり家を出されて露頭に迷ったり、あんまりいいことはない。

生保も金科玉条ではないけど、それでもやぶれかぶれ生きていく最低限をなんとか守れる制度だと思えば、苦しくなりすぎる前に手続きをとって生きていってほしいと思う。

 

役に立つとか、立たないとか、自分の価値基準をそんな狭い言葉ではからずに人が生きていける社会にならないものかなと年末に心から願う。