昨日の娘は、今日はスッキリと目を覚まして、爽やかに「おはよう」と言ってくれたので昨日の癇癪はなかったことになりそうだった。
息子の大事な図鑑をぐちゃっとしたこと、暴言を吐いたことはは謝らないといけないと伝えたけど、ちゃんと謝って、大好きなフルーツサンドと肉まんを食べて投稿していった。
それとはまた違う話で。
Twitterをふと眺めていると、つい「この方の生活にはどんなことがあるのだろうか」と気になってしまうことがある。
そしてついつい読ませていただいていて、勝手に心のなかで応援したり胸が熱くなって涙が出そうになったりすることがある。
とくに病児と向き合う親御さんの投稿は涙なしには見られない。
私は何に涙をしているんだろう。
嬉しいことも、悲しく思うことも、悔しく思うこともある。
とくに、どなたかが短い命を終えたときのこの悔しさはどこからくるのだろう。書いていて、また目頭が熱くなる。
すごく悔しい。
まだ6歳とか2歳とか。
命が儚くて救えないことへの悔しさがあって、自分の力ではどうにもできないのだけど、「なにかできることはないか」と焦ったり心をモヤモヤと急き立てられる。
このもやもや、涙、悔しさの正体はなんだろうと思う。子どもがいるゆえに、ちょっと感情移入をしすぎてしまうのかもしれない。
でもその時の感情移入とか思いに自分の子どもの存在がちらつくことはあまりなくて、ひたすらその(Twitter)先の親子のことを考えてしまう。考えてしまうのだけど、どうにもできない自分へのいらだち。
そんなときにふと、聖路加病院院長をしていた日野原重明先生の言葉を思い出した。
「命とは時間なんですよ」という言葉。
聞いたのは20年近く前だったと思うけど、その時はピンとこなかった。
でも、今その言葉を噛み締めたいと思う。
私は自分の命を誰かのために使っているだろうか。自分のためにも、誰かのためにも時間を使っているだろうか。
日野原先生の「いのちとは時間」という話に通底しているのは
「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。
の言葉があったと思う。
だけど、先生なりの解釈では「自分の人生を他者のために差し出すことはできていますか」ということでもあったのだと、今は思う。
私が感じる「悔しさ」の中には、無力感とともに「何してるんだろう」という自分への不甲斐なさとか呆れも含まれているのかもしれない。
今は児童福祉の分野でなにか取り組みなど全くできてないけど、やっぱり子どもたちの生きる環境を支えたり良くしたりしたいなぁ。
子どものいのちが現代医学を持っても救えない事実に心が打ちのめされる思いもあるけど、同時に自分の時間をもっと人に捧げていきたいと思ったり。
目の前の自分のこどもにも、まだ見ぬ遠くの子どもにも。
涙したり、悔しがっているだけじゃなくて自分の時間を、いのちを差し出せるように生きていきたい。