仕事がら、毎日のように誰かの話を聴いている。患者さんだったり、ご家族だったり。
話を聴くということの他には、「社会制度の活用」を検討したり、必要に応じて案内することも役割としてある。
久しぶりに、傾聴の学びをして「傾聴ができない」という自分に出会ってショックを受けている。
はっきり言って、こんなにできないと思っていなかった。
普段、なるべく相手の考えや思いを聴こう、聴きたいと思いながら面談にのぞんでいたつもりだし、話し手の思いや考えを尊重したいという気持ちで面談にのぞんでいた。
だけど、それ、全部私の思いに過ぎなくて「できてねぇよ」というのが真実なんだなと、打ちのめされて講座を終えた。
たとえば。
「長くこの会社で働いてきて、自分としては評価してもらえると思っていたのに。全然評価されてない気がして、裏切られた気持ちがする」
って言葉があったとした時、「裏切られた気持ちがするんだね」という共感はしたとしても、「長く働いてきた」「評価してもらえると思っていた」ことへのねぎらい。こういうのがちゃんと面談の中で自然にできているか。
相手が「裏切られた気持ち」と感じた裏にはどんな期待があった?どうしてほしかった?今までだったらどんなことが「評価」に感じていた?
もっともっと、話し手の言葉の中に隠されている、思いに隠されている「思い」があったはず。そこが全然聴けてない自分に気づいた。
でも、こういう「嫌な気づき」こそ勉強をする意味でもある。
傾聴ってすべての基本だと思う。
MSWだからとか、コンサルタントだからとか、カウンセラーだからとか、それでできるできないじゃなくて、相談業務をするすべての人の標準武装みたいなものだと思う。なのに、その標準もない私。
幸いにもキャリアコンサルタントは資格の更新をしなくちゃいけないから、そんな自分のヤバさにも気づけたけど、MSWみたいな社福の資格は更新学習もないから「聴いてるつもり」「できてるつもり」ってこともあるだろう。
恐ろしすぎる。
どんなに得意とすることでも、というかは得意とすることほど自分が出やすい。
できないことがよくわかったのでとにかく傾聴の技術を磨く・身につける。これが私の至上命題。