10年前に津波の映像を見たのは、当日だったか、翌日だったか。ともかくあの頃は呆然と津波の様子を眺めていた。
陸に海ができるかのように、水が地に満ちていく様子は地球の始まりか終わりか、あきらかに「人工」を寄せ付けないものすごい大きな自然の威力を見せつけられているような気持ちだった。
だから、ただただ眺めていた。
あれから10年経って年々津波を見るときに感じる切迫感、苦しさが増している。ずっと話せなかったことを抱えている方たちが語り始めてくれていたり、10年の月日が変えている景色が確実にある。
それを知れば知るほど、あの津波の映像がものすごく苦しく胸に迫る。取り返しのつかないことが起きてしまったというものすごい焦燥感というか後悔というか。
とても平常心では見られなくなっている。
10年という歳月が忘れさせているものもあるのかもしれないけれど、私には逆に「知ったことで迫るリアリティ」みたいなものがある。
これはたとえば、私が絶対戦争反対!って思っているのだけど、それは過去の歴史の検証や戦争による喪失の大きさに何度も心が苦しいという思いをしてきたから。
時間が経てば忘れてしまうことがあるというのも事実としてある一方で、月日が経つからこそ際立つ苦しみもある。
それは検証や歴史考察の中でないがしろにされてきた「なにか」によって犠牲になったものがあったことがわかったり、救えたのかもしれないという後悔が伴うからなのかも。
復興五輪とか、政治家が震災とオリンピックを結びつけて語っていたけど、私の中ではこの10年で震災で失われたものが取り戻ってきた感覚は正直あまりなくて、失われたものの大きさをまざまざと知らしめられたという思いがある。
それでも人の営みがものすごくたくましくてしなやか。そこだけが希望の光で、それをオリンピックとどんなふうに結ぶつもりだったのだろう。って、オリンピックのこの期に及んでのごたごたを見て、気持ちがざらざらする。