子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

支援する側と支援される側

f:id:like_little_children:20210409200428p:plain

昔から「支援する側とされる側には永遠に埋まらない溝がある」という話を耳にしていた。

それで福祉業界に行くこと自体、ためらいがあった。自分が仕事で関わるとすれば支援者として身を置くことになるだろうし、そうなったときにそこにある非対称は言葉に出来ないけど「よくない」と若い頃は思っていた。

それよりも社会に横たわるいろんな課題や問題を浮き彫りにして世の中に提言したり、そういう問題にスポットを当てるような職を、と思って、メディアの道に進んだ。

 

結果的に今、福祉とか医療とか、どちらかというとクライエントとの関係において「完全なる横並び」ではない立場で仕事をしていて日々、すごく悩む。

「契約関係の上に成り立っている」とか「信頼関係を結んで」とか、言葉ではとても簡単なこと。

だけど、実際には毎日のように様々な患者さんに接していくばくか制度の理解もして、目の前にいる患者さんと対峙するとき、当たり前だけど情報量にも格差がある。

だから私みたいな人が病院にいるのだけど、そこには対等であると言いつつも、非対称な関係として存在している。

 

先の伊是名さんの問題提起を通して改めてこの関係性について考えている。

数日前にまとめたブログに考えをまとめている。

 

hopeforchildren.hatenablog.com考えているけど、やっぱり思うのだ。

支援される側も、する側も、きっと対話しながら「相手はこんなふうに思うのではないか」「自分だったらこんなふうに対応するだろうな」と。

 

伊是名さんのことで違和感があったのは、彼女の「事前には連絡せずに行った」という点。

彼女の主張はすごくわかるし理想だけどそうありたい、そうなったらいいと私も強く思う(障害があろうとなかろうと、どんな状況であっても同じように出かけたり過ごせたりしたらどんなにかすてきだろう、と)。

だけど、現実にはそうではない。

それにそうなることもきっとない、と今は思う。

なぜなら、たとえばコンサートホールでも車椅子の方はステージがよく見える席やスペースが用意されている。その座席数は限りもある。だから絶対に見たいときに見られるとは限らない。

でもたとえば、前の席であったり、広いスペースであったり、必要に応じて確保されている。

本当の配慮とは、すべてのおいて障害の有無に関わらず一律になることではなくて、個別に対応していくことだと思う。

だけど、残念ながら世の中のどの人がどんな個別対応を必要としているか、わからない。

 

だからきちんとヒアリングしてアセスメントして、提案してお互いにどうしたら良いのか試行錯誤したり確認し合ったりして、物事を進めていく。

 

これは私が仕事でしていることと似ている。

きっとその延長に障害を持つ人と社会とのやり取りが必要なのだと思う。

「いちいち言わないといけないのは大変」かもしれないけれど、個別対応ってマニュアル化だけでは解決できないこともたくさんある。

人によっては、酸素ボンベをつけています、ってこともあるだろうしそうなったらその機材も一緒に運ぶ必要があるから人手はもう1名多くほしい、といったこともあるだろう。

そうしたらやっぱり事前にどういうふうにどこを通って、誰が先導して誰が手伝って...と細かく話さないといけない。だって命に関わるから。

 

人が生きるって、それくらい大変で繊細なことなのだろうと思う。

 

もう一つ、違和感があったのは「もしも伊是名さんがJR職員の立場だったら果たして同接したのだろうか」ということ。

駅には自分と数名しかいない。

持ち場を離れることはできない、一人では対応しきれない...。

 

そうしたときに、責任感も正義感も強い彼女はもしかしたら「職務全うをしないと、ほかの何百人の乗客に迷惑をかけてしまう」と自分の正義を貫くのではないか。

どっちが良いとか悪いとかではない。

大事なのは相手のことを思いやったり自分だったらこうかな、とか想像しながら、想像とは違う反応が相手からあったときにも「そういう人もいるんだ」と思ったり「こういうふうにはできないか」と投げかけてみたり。

そういう言葉のやり取りを何度も重ねてそこで初めて、お互いのことが少しわかって、支援するとかされるとか、そういうこと以上に「このことを解決しよう」って一つのことに向かえるのではないか。と思う。

 

Twitterだけでは言い表せない。

彼女が正しいとか間違ってるとかそんな話ではなくて、支援とはなにか。を考えさせられた。