子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

いる場所で見える景色が違う。

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当然、当たり前のこと。当たり前すぎる話なのだけど、自分の置かれた立場、いる場所で同じ事象でも見えてる景色が全然違う。

以前につとめていた病院では、医師はそれなりに偉かったし、無責任だったし、一言で言えば仕事ができなかった。できないっていうのは、たとえば糖尿病の患者さんがいたときに適切な処方すらできなかった。専門じゃないからできないっていうのであれば薬剤師に聞くとかコンサルをかけるとか、何か対処すればいいのだけど全部師長に押し付けていた。

かといって、師長も30そこそこだったりで「わかんなーい」って感じでもあり、ジリジリ。

慢性疾患は急激に悪くなることが少ないものの、脳梗塞の所見があっても判断できない先生たちでそれはもう、驚くほど何も回ってなかった。今思えば。

 

だけどそういう組織の中でそういう人たちの中で働いていると「こういうもの」というふうにどこか受け入れてしまう部分もあって、変だよなと思いながらも「所詮は医師はこういうものだ」とどこかであきらめるというか受け入れてしまっていた。

 

全く同じ職種で同じような仕事をしていて、今の職場は180度違う。

先生は自ら歩く「責任感」て感じで、あれこれと悩みをぶつけると「わかった」の一言で患者さん家族や患者さんと向き合ってくれる。これは、MSWだからとか、そうじゃないとか関係ない。

先生がほんとうの意味で「偉い」し、なんで偉いかというと最終的に責任を持っているという立場だから。

できないことは調べて勉強するし、それは院長だろうが昨日きた先生だろうが同じ。

 

院長が受け持っていた患者さんの糖尿病のコントロールがつかなくて、院長があちこちに聞きまくって「うーん」って苦闘してくれていた。

こういう組織で働いているときに見えている医療の風景と、前職のような病院で見える医療の風景はぜんぜん違う。

同じ仕事をしていても、いる場所見えるものが違う。

 

これって、4歳の男児の親、とか、保育園にあずけている親、とか、大枠ではそこにカテゴライズされていたとしてもその社会、世界の中で見えるものがみんな違うってこととも似ている。

 

他者理解ということを思うときに、つい自分の枠組みで相手を捉えがちだけど、相手の置かれた立場や、いる場所から論じたくなったり決めつけたくなるけど、そうなったときほど自分がおこがましくなっていることに気を留めたい。