子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

生きることばかり考えていた。

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この仕事(病院のソーシャルワーカー)をしていても、自分自身のことについても、いつも生きることばかり考えていた。

患者さんが今後の人生をどのように生きていくか、とか、自分自身はこれをしたい、あれをしたい、ここに行きたい...などなど。

生きることをベースにして人生を考えていた。

 

でもふと、SNSで疾患を持つ小児と関わっている方のつぶやきを読み、「ああ、死を思いながら生きている子どもがいるんだ」ということをまざまざと考えた時に、生きることを前提にあらゆることを考えていた自分はなにかすごくバランスが悪いというか、偏っているような気がした。

 

身近に死を体験している人と、そうでない私のような人はまた感じ方が違うのだろうけれど、少なくとも生きている以上は死ぬことと背中合わせ。

死ぬときのことを考えずに生きていくことは、死について考えることから逃げているだけのような気がしている。

高齢の方と話していて、「どうせ死ぬんだ」という人も時々いる。

「どうせ」という言葉の真相はわからないけれど、死ぬことって「どうせ」とか「私なんか」といった言葉ではきっと到底語り尽くせない話なのではないかと思う。

どうしたって私たちはどうせ死ぬ。

そうなのだけど死ぬことだけが人生の全てではないし、死ぬために生きているわけでもない。

だけど、死ぬことを考えずに生きていくっていうのは何か物足りないというか、最初に書いたように偏りがあるように思える。

昔、遠藤周作が「生き様」なんて言う人がいるけれど、そんなものはない。あるのは死に様だ。どういう死に様がよいか...といったことをエッセイに書いていた。

私の永遠の師匠(心の)。

愛してやまない作家なのだけど、読んだあの頃はあまりにも若かった。

今思うと、遠藤周作のその言葉もわかる気がする。

 

死ぬ、という未知の地点から生きることを考えてみたい。