認知症とは言うけれど。
病院で働いていると、世代は様々で病気や怪我をした人たちと出会う。
その中には認知症の人もいるし、もともと障害を持って生活してる人もいるし、いろんな背景の人たちがいる。
会話ができない人もいるし、会話はできるけれども噛み合わない人もいる。
そんな患者さんの一人である女性と少しだけ時間をかけて話をした。
その人とは不定期に面談というかお話をしているのだけど、記憶もばらばらになっているし、私のことは娘さんの友達だと思っている。特にそれで問題はない。
その方のお子さんの話になって、子育てのことなど話していると、「子どもが大きくなるのはあっという間。寂しいもんよ。お金しかせびらないんだから」なんておっしゃっていた。
もちろん、お子さんたちはお母さんのことを金づるだなんて思ってないし、親身になっていつもお母さんのために動いてくれている。
きっと思春期の頃のことを話しているのだろう。成長がいかにあっという間であっけないものかということを話してくださった。
それを聞いているとしみじみと思う。
自分の中に深く刻まれた事柄や、シーンや憧憬というのはいつまでも消えないのではないか。
認知症が進行して今のことは多くのことが把握できなくなっていたとしても、生きてきた道筋に残る色や光や跡というのは、どこかに染み付いているのだろう、と。
その女性は入院当初、すごくソワソワとしていて「帰る」と聞かず、看護師さんの腕を強く握ったりして「暴力行為」なんて言われてしまっていた。
不穏になる夕方になるべく声をかけたり、関わっていたものの夜勤もするわけではないし私の立場でできることも少なかった。
それでも1ヶ月、2ヶ月立って段々と落ち着いて生活できるようになって今では穏やかに過ごしている。
疾患名でくくってしまえば元も子もないのだけど、個人的には疾患は疾患、その人はどういうふうに今までの人生を築いてきたのか、人生の最後の時期に差し掛かって今何を考えているのだろう。そういうことにばかりいつも興味が向いている。
人のことを知ろうとしても、知ることは到底できない。だけれども知りたいということをやめてしまえば誰かと関わることはきっとできなくなるのだろう。そんなことも思っている。