仕事が立て込んでいて、すっかり昼下がりになった日のこと。
帰り道に急に「田園」が聴きたくなった。クラシックの方ではなくて、玉置浩二の方の田園。
高校くらいの頃にあった曲だと思う。今でも名曲だと思う。
玉置浩二というと、いろいろとマスコミを賑わせたり、ぶっちゃけているというかはっちゃけているというか、彼自身にはそうしたイメージが先行しているのだけど、田園は何度聞いても名曲だと思った。
ASKAのことをふと思い出し、あんなにいい曲をたくさん書いてたのにやっていることがあまりにもゲスで、二度と聴く気になれない。そんな気持ちもあるけど、よく聴いてた時期が長くあったから今も急に思い出したりする。
そうすると、良いメロディーだった、良い歌詞だったなと思う。
良い音楽を作る人のプライベートな生き方や考え方はあまり関係ないのか。
昨日書いた記事じゃないけど、「良い人」であることが立場を変えたら全く違う姿で浮かび上がることはよくあるのかもしれない。
私が仕事で一生懸命に患者さんの相談に乗っていることは、仕事で評価されたとしても娘にしたら「なんで今日はお弁当なの?下校後は家に帰りたかったのに」と学童に行くことにがっかりだったりする。
息子とて、土曜日なのに保育園だよ〜とがっかりしていたかもしれない。
表にでているものの影には、違う見え方がある。
私たちが何かを「これってこうなんだ」と理解したり解釈する時に、きっとそうではない、見えていない側面もある。自分の見え方や解釈が全てではない。
そのことに自覚的でいたいし、その上で良いものを良いねとあえて言っていたい。
光には影がつきまとうけど影のことばかりを考えていては光すらもぼやけてしまうだろうから。
新婚の知人女性が、自分のメンタル不調を夫が理解してくれないと嘆いていた。
泣きわめいたり、当たり散らしたりしているとのこと。結婚生活を始める前は光の部分ばかりが見える。
結婚したら影の部分を見ざるを得ないこともあるだろうけれど、個人的にはそれを積極的に開示することが人間関係にとってプラスとは思えないでいる。
私が疲れていようが、だるかろうが、共に暮らす人にどこまでそれを共有すべきかについては必要最小限で良いと思っている。
私が疲れている日に、娘にとってすごく良いことがあれば私が疲れていることと関係なく、喜んだり嬉しがったりしていてほしい。
私が疲れているんだから!ってことで家の中の空気までどんよりさせたくない。
自分の気持ちの中のことは、やっぱりいくらパートナーでも関係ないこともあるような気がする。もちろん、「ああ調子悪いんだね」という程度に認識しておいてもらうのはとても大事だとしても、細かなあれやこれのことまでも開示する必要性はわからない。
結局のところ何になるのだろうか、と思ってしまう。
なんてことを思ったのだけど、人の夫婦の話なので私が何かを言う立場でもない。
人間ていかに不完全かということを光と影の間のことを考えて思っていた。田園からの長いインスピレーション。