子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

コロナと憂鬱

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私の母は変化にとても弱い。

人の言葉にもとても左右される。

幼い頃は母のそういう特性がわかっていなくて、私はよく怒られていた。私の歩く道に波風が立ち、母が遠回しに指摘(嫌味?)をされ、私のところにブーメランとして怒りが投下されることが多々あった。

格段に減ったのは中学以降。

何なら、誰も指摘しないことでも非常に怒られた。20分でも30分でも、1時間でも怒られた。怒られることが私の生活の一部になっていた。

もう過去のことなのと、母がなぜ私にそんなにも怒ったのか今はよくわかるから何の恨みもない。今も時折怒られるけれど、母もまた変わったので怒ったあとは案外スッキリしている。

怒っていた内容は「カーテンの締め方が悪い」「暗くなったのに雨戸が閉まっていない」「プリントがぐしゃっとなっている」「ペンを勝手に使ったでしょ」などなどだ。

 

まあ、母は縦のものが斜めになっただけでも落ち着かない人だから仕方がない。

私は縦のものがひっくり返ってても平気なタイプ。両極端の親子の気が合うわけがない。

なのに今はそんなに不仲でもない。

 

そんな母が最近とても疲れるという。原因はわからないけれど、一つ思い当たるのはコロナ自粛が長いせいではないか、とのこと。

 

昨年、緊急事態で学校が休校だったときこそ少し娘のことでお世話になったものの、昼間は基本的に学童、保育園とそれぞれ預けていたし、母に大きく負荷をかけていないはず...。

母曰く「そういうこと以前に普段どおりではなくなって久しく、やることがない。やることがないと疲れる」と。

 

確かに。コロナによって1年の中の予定がほぼ空白となった。旅行や人と合う約束や観劇など母がちょこちょこと楽しみにしていたことが一つもできなくなっている。

映画などは見に行っているし何もすることがないわけでもないけれど、大きな計画を建てるような予定を立てることがかなわない。

人はいかに予定や準備を含めて本番を楽しみにしていたか、ということを思い知らされる。

その上、一歩外に出ればマスクだの、飲食禁止だのといった生活を強いられているし互いに監視されているような感じもする。

 

母にとってはマスクをすることも、飲食しないことも何の苦でもないのだけど、そうせねばならないという強制というのはやっぱり苦痛なのだろうと思う。

その感覚はとても理解できる。

 

その上で、私自身はあまり憂うつ感がないのはなぜだろうか、このちがいは。と考えた。

 

私は「こんなもんでしょう」みたいな感じで徐々に受け入れ始めている。

昨年は右往左往と思った時期もあったけど、よくわからないことは勤務先の先生に聞いて解決というか納得していたし、正直言って仕事に影響がなかったのはとても大きいと思っている。

院内での役割もやるべきことも、立場上何も変わっていない。

 

やり方で多少変わったことはあったけれど、形を変えれば逆に言うとできていて、その事自体もありがたいと思っている。

 

一般企業に勤めていたり母のように自宅生活をしている人は、普段以上に生活の変化は大きいのではないだろうかと思う。私もそうだったらきっと不安や疲れが押し寄せていたことだろうと思う。

 

ワクチン接種が広がっている。

これによって今後どうなるかわからないけれど、たとえば飲み会をする自由も、しない自由も選べる社会が戻ってきてほしい。

マスクを外して良いよと言われる時代が来たとしても、勤務先の性質上冬はマスクが欠かせない。

それでもまちなかでマスクをする自由も、しない自由も選べることはとても貴い。

私たちは(というか自由意志を持つ人は)何かを強制されることによって、楽になることはなくむしろ疲れるのだと思った。