子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

偏見は聞きかじりと知ったかぶりから。

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普段、Twitterで海外在住の方の投稿を読む機会がある。フォローしているからなのだけども。そうしたツイートの中には、「日本はこうでああだ。ここに来たらそういうのは通用しない」(そのまた逆)。みたいな話をよく見かける。

 

日本についてどの程度覚えているのか、理解しているのか(制度や法律の改正など)はわからないけど、そういうのを目にすると迂闊にも「え〜そうなんだ。日本はまだまだだな」とか「まあ、それに比べたら日本はマシだよね」なんてスルスルと受け止めていた。

 

だけど、まてよ?とふと思った。

日本に住んで、東京に住んでいて東京で働いている私が「東京って○○」って仮に語ったとしてそれで「東京」が言い表せるわけもなく、まして中年の私が見えてる東京の姿と10代20代のそれは大きく違うだろうと思ったりもする。

 

海外在住というだけでなにかそこに特別なものを見出そうとしてしまっている自分がいたのかなと思ったり、その人を通してその地のことを知ろうとしていたのだろうと思うけど、それはその人が見えてる、その人のコミュニティの範疇の話。

大筋で正しかったり当たっていることがあったとしても、すべてを言い尽くすことなどできない。

アタリマエのことなのだけど、声の大きい人の言葉ってさも正しそうに、最先端のことのように聞こえがち。

中年から一番遠いのは少し干支一回りくらい年下の人の声だったりする。一世代違うと、逆に子どもを通してその世代の価値観とか嗜好に出会えるけど、干支一回りくらい違うときょうだいでもなかなかいないし、親子でもないし、職場では年の差がありすぎるし。

仲良しの人が1人、2人いることがあったとしても「ほぼ全員干支一回り年下の人が友達なんだよね」みたいな人ってあまりいないだろう。

そういう交わりにくい世代の声はお互いに聞こえづらい。

そう思うと、何かを代表しているように聞こえる話でも「それはそれ。一部であって全部じゃない」という当然のことを忘れずにいたい。

 

人の偏見て、そういう聞きかじりから生まれる気がするから。