子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

誰かに寄り添うこと。

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担当していた患者さんが急性期治療のために救急車で転院していった。ずっと具合が悪かった。ずっと耐えていた。

ようやく治療が受けられる。

少し安心する私がいた。だけど、ご家族は本人が病で倒れて以来、ずっと参っていた。だからこの状況は本人以上に家族にとって酷であるということを感じている。

 

病院は、高齢者施設は、という大きな主語で語るべきではないけれど多くの場合にそうした組織では「いざというときの治療方針」について普段から家族と話しておいてほしいと考えるし、その答えを求めたがる。

 

だけども、そうしたことを考えていないとかフルコースで見てほしいとか、いろんな思いを持って過ごしている家族がいる。

きちんと考えていたことが偉いわけでもなく、考えてないことが悪いとも、個人的には思えない。だって人の考えは変わるから。たとえば私の場合、親のDNARは容易に承諾できるけど(当人が望んでるから)子どものそれは絶対に無理だろうと思う。

親にだって本音ではできればのぞみがあれば治療をしてほしいから、DNRではなくてDNARだ、と思っている。

 

急性期病院はどこの病院もDCPによって(包括払い)で入院料が決まっているから、一日でも早く結論を出して次の病院に送ることが正義になっている。

病に倒れて次々と症状が現れたり悪化している身内に対して、「あなたのサイン一つで心肺蘇生しないですよ」という同意を求められて、パニックになったり気が狂いそうになる家族に、私はその中で結論を求めるのは全く正しいことじゃないと思っている。

 

急性期のMSWじゃないからそんな綺麗事言うんだよ、と言われるかもしれないけれど、人の命ってそんな簡単に結論の出せるものでもない。

ご家族のゆらぎとか迷いとか、不安とか。

いろんなものを一緒に受け止めて話を聴いて、患者本人と家族の歴史や関係性の中で何が最善かを一緒に考えていくしかない。

結論を出すのは家族だとしても、話を聴いて悩みを聴いて、受け止めることくらいは微力ながらもできるかもしれない。

そのために我々が配置されている。と思うと、傾聴だとか寄りそうだとか、歯の浮くような言葉だとしても理想だとしても、やっぱりそれを大事にしていきたいと思う。私どもからそれをなくしたら、本当にただの調整屋。