またいつかゆっくり触れたいと思うけど、五輪作曲を担当することになったミュージシャンが学生時代に繰り返し行っていた虐待が再び日の目を見て辞任に至った、というニュースが流れてきた。
当然だろう。という思いとともに、つい数日前に「謝りたい」とか「ずっと心にあった」的な謝罪文的なポエムを発表してなにか矮小化しようとでもしているのか?と呆れさせられた。
まあ、この話の陰湿さはちょっと人智を超えている。
なのでそこは今日は深くは触れず。
ふと思った。
子どもの頃から、悪いことをしたときに「謝る」ということをしつけの中で子どもに教えている。
謝ってすむ問題ではないというものがあることも、子どもたちには時に厳しく諭しながら教えてきたつもり。
だけど、自分の中にも「謝ることで少し罪を軽くしたい、できるのではないか」という邪な気持ちがあるのも厳然たる事実で、謝る行為の中に「ゆるされたい」という自分本位の思いが潜んでいる、あるいは潜むことすらもせずに表立ってそういう謝罪になっているということがあるなぁと思った。
彼の罪の重さと、自分の罪の重さ。そこは測る測りもない。
だけど、同じようなものなのだろう。内容や質が違っても「自分の犯したことを矮小化したり軽度化したい」という誘惑があって、そこに引き寄せられるように謝っていることがあるし、きっとこの先もある。口をついて出る「ごめんね」に謝ったから許してもらえるかな、もらえるよね。もらいたい。
そういう思いが込められすぎていたり。
気をつけなければいけない。
TOKYO MXのモーニングフラッグで大空幸星さんが言っていた。「謝ってほしくもない。もう二度と同じことをしないでほしい」と。
謝る以上は「二度としない」。そのこととセットなのだろう。
私の場合は、退院患者さんの退院先とかの情報を他職種に知らせる連絡をつい忘れてしまうとか、そういうレベルで日常的にあるし、子どもを怒りすぎちゃったかなとかいうこともまあある。
誰かをいじめるとか弱いものを痛めるとか一番キライなことだからしないとしても、やっぱり違う観点では人に迷惑をかけながら生きている。
謝ることで何かがすなわち許されるわけではない。
謝り、もう二度としないというための善後策までがセット。当然のこと。
まあ、今回のミュージシャンの話とは、行動の内容の質が異なるとしても、謝れば許してもらえる、という考えや発想はあまり持たないほうがいいよね。とは思ったりした。
でも、謝ることなく何も始まらないのも事実。そして何も終わらないのも事実。
謝った上での態度。行動。
それがすごく大事ってことなのだろう。