「顔も声もそっくりだから」
朝、息子と保育園に行く道のり。家を出る前までは、娘が小学校に行かないことを訝しみ、なぜ自分は保育園に行くのかと行き渋る。
だけどひとたび家を飛び出すと、足取り軽く保育園に向かう。
ときどきは「抱っこして」と言われるので16kgとなった息子を抱えて保育園に行く。
行き帰りの僅かな時間が2人きりで話せる時間だから、それは貴重でそしてかわいい。
今朝は、「僕はママと似ているでしょう。顔も、声も」と言っていた。
そうか、こんな甲高く舌っ足らずな感じか私は。
顔だって息子ほどには愛くるしくもなく、どっちかというとのべっとした感じなんだけどな。
どっちかといえばうちの母親似だよな、と思ったものの、息子なりの解釈。
きっとどこかで誰かに「お母さんに似てるね」とか言われたのかもしれない。
顔の似てる、似てないは当事者は正しくは捉えられないし、第三者とてどこを見ているかでその判断は変わる。顔の造作は異なるのに雰囲気がそっくりなんて人もいる。
全く似てないけど肌の白さが瓜二つとか骨の形が一緒とか。とにかく親子やきょうだいの「似ている」の奥は深い。
息子の「ママと似ている」ということを今朝はつらつらと考えていた。
ただ、生まれてから思うのは似ていても似ていなくても私と同じようには感じたことがない、ということ。
言葉にするのは難しいけれど、自分とは全く違う世代に生まれて違う人生を生まれた初日から刻んでいて、私の4歳とか7歳とは異なる感受性と好みと性格で生きてるのが子どもたち。
アタリマエのことなのだけども。だから「似ている」ってことがなんともすごく不思議に感じる。どこもかしこも似ていなければそれはそれで「他者」感はあるけど、あちこちが似ているけれどやっぱりぜんぜん違う別人格。
そういう感じって不思議でおもしろい。