子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

本来の仕事(目的)を全うしたい私たち。

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私はいま病院で働いている。

 

最近、東京都より「コロナ患者のためにもっと病床を増やせ、入院させろ。先送りできる手術は先送りを」というお達しがあった。

 

そうせざるを得ない状況があるのは百も承知。

コロナ患者も生きるか死ぬかの世界線をさまよっているから一刻も早く助けたい。

だけど今、目の前にいる脳梗塞心筋梗塞の患者の命も助けたい。

医療者は「眼の前にいる患者」に全神経を集中して助けて、次の患者を診ていくしかない。

 

うちの病院の先生たちは、訪問診療、外来診療、入院患者の診察など日々日々、いろんな役割を持って患者さんを診ている。

 

コロナの流行も私など後方部隊より人一倍、敏感に感じているだろう。

だからこそ、このコロナの状況下で職員も守りながらコロナの患者さんをどう受け入れていくか、ほかの診療とどう並行させていくか、上層部の先生たちは腐心していたように思う。

うちの病院自体はわりと外科に強くて内科はそこまで強くない。それゆえに、本来の外科としての病院の信頼とか対応力などを軸に医療を提供するしかないし、かといってコロナに背を向けるわけにはいかないからそこにも医療を提供していく。

ここ2年はそんな感じだった。

 

そしてこの夏。

都知事はオリパラで華々しく開会式に出ている裏側で、増床と医療のさらなる拡充の「お願い」をしている。

アイロニカルが過ぎる。

 

外科の医師は外科としての領分を、精神科の看護師は精神科看護師としての領分を、それぞれが築き上げてきた専門性と知識と知恵をフルで必要としている患者さんに使いたい。

今以上に「リソースを割け」ということはこれまでの医療の手をとめねばならない場面もあるだろう。

 

自分が磨いてきたスキルや積んできた知識をいったん止めなくちゃいけないとして、人事異動でそれがかなわないのであれば、まだわかる。

もうそれを必要とする患者がいないのであれば、まだわかる。

 

だけど、相変わらず必要としている人がいるし外科の先生なら外科、オペ看ならオペ看の役割や必要がある中を、コロナに提供していかなければならない。

 

すべての医師も看護師も、リハビリスタッフも薬剤師も「コロナ患者への対応をやりたくない」などと思っているわけでもないし、やらねばと思っている人も多くいる。

だけどそれぞれに生活もあり、家族もあり、背景も皆それぞれ。

いろいろな葛藤を抱えながらも「やってください」と言われればやるしかないし、今、コロナ患者には1つでも多くのベッドと医療体制が必要なのだから病院としてやるのだろう。

 

ただ、今のように私立病院が乱立し、公立病院を大きく削減してきたのは国であり都の方針なんだよ。

新型インフルが流行ったときも、SARSが流行ったときも、国として都として明確な対策や医療提供の制度設計をしてこなかった。

そういうところの「甘さ」がいま出ている。

政治に思想がない。それが根本理由なのだろうと思っているけど、昨年にGo Toなんちゃらとやっていたのはまさしくその証左だし、増床要請ををする同じ舌でオリンピック・パラリンピック開幕バンザイ!みたいなことを言えてしまう神経。

私には「ワケガワカラナイ」話である。

 

今は非常時。

そういうのならオリパラもやめるべきだったし、起きてしまったこと、過ぎてしまったことを「過去のこと」とせずに今の課題として、反省として未来に何を生かせるのかを考えないと先に進んではいけない。そんな気がする。

このままこの国は無反省に、無批判に、コロナさえもメディアのネタとして「消費」し、国の反省を促さずにコロナ後の世界を夢見るのだろうか。

きっと、76年前の戦争のときも同じようだったのだろう。

 

いろいろと怒りもあるし気になることもあるけれど、コロナ患者さんが一人でも多く治療を受けて社会復帰まで無事に辿れるようにできることをしていくしかない。