結婚時代のこと。
先日、Twitterで「妻が麦茶を作ってと言ったのに作ってなかった。そんなことまで管理しないといけないのか」という夫のつぶやきを見かけた。それに対して非難轟々、「てめぇでやれ」という直截なメッセージも含めて、モラハラだねという返しが非常に冷静だなと思った。
些細な、いろんなTwitterの1Tweetに過ぎないのだけど、ずっと心の中に小さなささくれのように残っている。
ああ、あの頃の私は日常的にこういう話を聞かされていたなぁなんて。
「○○、まだやってないの?そんなこともいわれないとできないの?」「○も△もできないなら僕がやるしかないね」などなど。
こういう順番でやろうと思っていたから、今はこれをしていると話しても「○を言ったのは2時間前。それなのに今もやってないのは......」と言ったらその分、言い返される。
私は婚姻中に夫と正面切って喧嘩した記憶はあまりない。
上記のようなやり取りの中で冷静に論理的にこうなのでこうしました、こういう予定ですと伝えたところで「あなたはいつも歯向かう」とか「どうしても認めないんだね」とか全然違う話になっていく。
端的に言って面倒くさかった。毎日、無数にこういうやり取りに満ちていたからもううんざりしていた。黙って麦茶を作れば向こうの気はおさまったし、「ごめんなさい」といえば「素直に謝るんだね。ふだんからそうあってほしい」というようなことを言われて過ぎ去れた。
過ぎ去れ、過ぎ去れ。
夫とのこうした話の時間はいつもそのことばかりだった。
喧嘩をするって、おとなになってからもずいぶんしなくなっていて喧嘩ってなんだっけ?という感じでもあったのも余計にうまくいかなかった理由かもしれない。
嫌だなと思うことがあっても、泣いたり怒ったりはあまりできなかった。子どもにはカッとなるくせにね。
親にもカッとなるのにね。なのに夫を前にすると白けてしまう。
相手の、私からすると意味のわからないイチャモンにとにかくやり過ごす術を探している感じだった。
なんか、モラハラ麦茶の話を読んで、そのことをつらつらと思い出していた。
折しも、職場の人に「帰り遅いね。お子さんは旦那さんが?」と聞かれて「夫はいません」と答えて、いくつかの言葉を交わした後、「結婚している時にすごく大変だったんで。今はすごく楽です」と答えた。
そのことに結婚生活が集約されている。
本当に、すごく大変だったんだ。
私の大変は、他の人からしたら全然大変じゃないかも知れない。
だけど、私は大変だと思った。
結婚していたときは「これくらいは別に傷つきもしないし、なんでもない」と言っていた。実際に、傷ついたのか?と問われると傷ついたわ私。とは思っていない。
だけど、なんでもなくはなかった。
毎日、心を削がれていた。傷つくような柔らかさもすでになく、すっかり硬直していたのだと思うけどガリガリと削り取られるような疲労がいつもあった。
今はそういうのはない。
それだけでも私の心はものすごくホッとしている、安らいでいる。
今更ながらに「あの頃、大変だった」ということをしみじみと認めて言葉にして、私の何かが昇華されていく。
離婚事案に限らず、そういうふうに自分の中の過去の出来事を振り返って素直に、率直にあの頃の感情をあるがままに見つめて受け止めていく。そういうことって大事なんだなと思った。蓋をしたり目を閉じてきた過去。
過ぎ去れと唱えていたあの時間。
私の中ではまだまだきっと気づいてないこともあるかもしれない。無理には思い出さないけれど、思い出したときにはゆっくりまた昇華させていこう。