誰かに「死ね」って言われるような経験、全然ない人もいるだろうし挨拶代わりに言われるような言葉を発する人がごく身近にいる環境で生きている人もいるかも知れない。
他人に言われたり言ったりする簡単な言葉ではないし、親や子ども、きょうだいに向かって発するのもまずしない言葉だと思う、普通は。
「普通は」。と言いたくなる、私の中の「普通」。
すれ違いざまに他人に言われたとしたら、相当腹が立つだろうし恐怖心を覚える。
じゃあ、家族に言われたら...腹立たしいし傷つくし、悲しくなるし怖いと思う。家族から言われるのはもっと複雑な感情が湧き上がる。いろんな気持ちが混ざってよぎって。
それなのに言われた側はなかなかそのときに味わった気持ちを誰かに言うことが難しかったりする。言った人が家族ゆえに。
それで何度かそんなことを繰り返していくうちにだんだんと「慣れ」てきてしまう。ああ、また言われたな、また言ってるなって。
そのうち、言葉が多少行動を帯びてくる。たとえばまだシートベルトをしていないのに急発進するとか、まだ家に入ってないのに鍵をかけられてしまうとか、大事にしていたものをぞんざいに扱われるとか。
別に身の危険をすぐさま感じるほどではないけれど、明らかな悪意や意図を感じる行動。
それでもされる側は「まあ、別に本当に殺されるわけではないし」とか「私が遅かったから」とか、たまたまそうなったのかもしれない、と思ってしまう。
相手が悪意を持ってやっているかもしれなくても、それの確証がない限りは疑うことを躊躇する良心があるから。
またの名を「正常性バイアス」とも言うのだろうと思う。
DVでもモラルハラスメントでも、虐待でも、そうしたことが無数に見える。家族の間に、職場の人間関係の中に、学校の中に。
学校も職場もやめることができるし、離れることが家族ほどは難しくない。
違うコミュニティで違う人間関係を築くことが現代社会では可能だ。
だけども、それが家族となると簡単には離れることができない。
「逃げちゃえばいいじゃない」と言っても、親子でなくなるわけでもきょうだいでなくなるわけでもない。だからすごく悩むんだよね。
最近、仕事でそんな状況に置かれた人と出会って、退院に向けての話をしながらも退院をするその先に、その人に待っている環境の過酷さを思うととても苦しくなる。
死ねって言われたり、つねられたりすることは「普通のこと」じゃない。
普通ってなんだろうかというと、心に不安や怖れや悲しみがなくて、安寧といられること。リラックスしていられること。
その人にとっての「普通」や「日常」が罵倒されたり意地悪をされることだとしても、誰かに死ねと言われることを当たり前に思ってほしくないし自分も思いたくない。
周りにいる人たちができることはそんなにたくさんないけれど、話を聞いて一緒に考えて...を繰り返して本人なりのこたえや解決策を見つけていくしかない。
退院を前にして何人かの担当者を交えての話し合いの中で、その人の中でずっとずっと心に引っかかっていたこと、不安に思ったり困っていたことを吐き出してくれて、話し合いを終えたあとに「胸にあったわだかまりが少し楽になった」といってもらえたのがせめてもの希望。