察する。
少し前に政治の話題の文脈で「忖度」という言葉がよく使われていた。
海外で生活したこともないし、海外の人と一緒に暮らしたこともないから、外国に忖度があるのかないのか知らないけど、我が家では「察する」ってことを割と小さい頃から叩き込まれていた。
別に「察しなさい」なんて言われない。
そんなことは察して生きろという人(母)は要求してこない。
表情一つで恐怖に縮み上がったり「今日は機嫌が6/10くらいで良さそうだ」とか、とにかく態度と表情と雰囲気で察するのだ。
日々日々、その積み重ね。
物心ついた頃からそういう空気感の中にいたように思う。母が不快になるようなことは当然、やらない。
それが崩れ始めたのは小学2年以降だったと思う。
私も学校で疲れてしまうようになったし、母も働き始めたから私の自由時間が増えた。母の顔色なんか気にせずに自由にくつろげる時間が増えて、のびのびしすぎて洗濯物を取り込んでなかったり、宿題はやっててもプリントを出してなかったり。
一番怒られたのは友人を家に招き入れていたこと。
かなり用意周到に掃除もして友人の痕跡を消したにも関わらず、バレていた。
小学生なんて所詮、ちょろい。
なので母の「察しろ」ということを察しながら生きていたものの、察しきれない小学生時代だった。
まあ、この教育の態度が良いか悪いかといえば余り良くないよな、と思う。それでも私も子どもに「言わないから察して」と思うことが少なくない。子どもたちが駄々をこねているとき、いつまでもふざけているとき。
わざわざ叱るエネルギーもないけど、睨みの一つでこっちがいいたいこと、わかるよね?みたいな気持ちになることは少なくない。
なので、きっと似たようなことをしている。
だけど、子どもたちが私のいない間に何をしているか、までは私も事細かに聞き出そうとは思わないから、そのあたりは母に比べてすごくゆるいと思う。
母も「あなたたち、私がお母さんじゃなくてよかったわね。ママは私にすごく怒られてたのよ」と孫(私の子たち)に言い聞かせている。
事実、本当です。
で、この察するという非常に日本的な(海外は知らないけど)文化が私の骨身に染み付いたおかげで今の仕事に、というか社会で働く時にとても役立っているのも確か。もしも母親の「察する」の教育がなければ、私は社会で全く使えなかっただろうと思う。
多分、未開の私がおとなになっていたら、察するなんて面倒くさいことは大嫌いで全然わからなくて、途方に暮れていただろうと思う。
幼少期から一番身近な大人に仕込まれたおかげで、相手の表情と空気と態度を精いっぱい咀嚼して「つまりこういうことですね」というのを私もまた表情にして(ミラーリング)、言葉にして(明文化)対応してきた。相手は「そう、あなたよくわかってくれるわね」と言ってくださる。
こういうのってそこそこできてしまう人もいれば私みたいに鍛錬されないとできない人もいるだろうと思う。
究極的には別に忖度なんかできなくたっていいだろうし、忖度のせいであらぬ方向に行ったり政治家みたいに犯罪に手を染めてしまうようなことがあるなら、何の意味もない。
今のところ、仕事では患者さんや家族の抱えてきた長い長い生活の中での価値観、思考みたいなものを受け止めたり耳を傾けたりすることに役立っているから「察する」というのも悪くなく、使えている。
姪が遊びに来たと母より連絡があった。
じゃあ、遊べるね!と思ったら、少し用事が違ったらしい。いやそれなら、私にわざわざ知らせないでいいじゃん。子どもたちはいとこと遊びたいじゃん!て思ったけど、母のまた「察しろ」という感じの態度で私もすべてをさとった次第。
仕事をしなくなったら、忖度も察しろもなくなるのかと思うと、自由だな。あと30年くらい先の話かな。