子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

「所属のない」という苦痛。

浪人時代のことを思い出す。

先生にこう言われた。「お前らは今、社会で何の必要ともされていない、ただの人だぞ。高校生とか大学生ですっていうのもないんだ。浪人生なんて、所属がないんだから。学校教育法で定められてないからな、予備校なんて」。

 

その頃、予備校では一応顔写真入りの身分証明書みたいなのがあって、定期もそれを使って買っていたけど、確かに別に何者でもない。

そんな日々を無駄に過ごし、念願の大学入学を果たした。

 

以来、「社会のどこにも所属していない」という時間を持ったことがない。

常に大学生か○○会社の社員でいる。

世の中には所属がないことに特に苦痛を感じない人と、感じる人といるらしい。

私はきっと圧倒的に後者だ。予備校時代の先生の言葉はしばらく頭を離れず、数年にわたって「私って今どこに所属してるっけ?」とたびたび考えていた。

 

先生の話は極端だったし、「予備校生」でも「無職」でも当たっているけど、今となってみれば社会が求めてくる「経歴」みたいなものに、実はそんなに重きもない気がする。

 

ただ、もしも自分に所属がなくなったら?と思うといろいろと心もとない気持ちになってしまう。

社会保険はどうなるんだろうか、自分は自分を「誰」というのだろうか。

別に社会的な立場=自分ではないけど、それでもそうした鎧みたいなものが自分を守っているのも確か。

今回、離婚後の養育費調停で子どもの所属を書く欄があった。小学生とか保育園児とか。

学校名や保育園名まで書いたかどうか覚えてないけど、単純に年齢だけではなく、そうした立ち位置みたいなものを書かせられた。

 

子どもが保育園に入園した時、「これで子どもの社会や世界が一つ広がった」と安堵したことを覚えているけど、その「社会」的な身分や立場が事務的に求められることは意外と多いのかもしれない。

働いていて、当たり前。

くらいに社会人になってずっとずっと働いているけど、働かないでもまた、自分自身が社会の一部であるという実感を持って生きていく強さがあるかな?と思うと、もしかしたら私にはそこまでの強さがない気がする。今の所属に漫然と安心しているというか。

 

でも、よく考えたら自分が守ってもらっていたという組織や所属に本当にピンチの時は守ってもらえないかもしれない。

だから、今ある立ち位置や場所に依存せずに、私は私の足で立って歩く必要があるんだろうな、と思う。