子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

「食べたいものを最期まで」のその先。

介護のSNS界隈で「ああ、また炎上している」という印象で記憶深いTwitterがある。

いろんな人がいて、介護も医療も教育も十人十色。

多様性が大事って言われる時代に、多様な医療、介護、教育、福祉があることは否定しない。

どの分野においても定められている「倫理綱領」の範囲の中であれば。

 

どうしてかというと、MSWという仕事をしていて私自身が帰属する「社会福祉士」に求められている倫理的価値観、規範があり、医師には医師の、看護師には看護師のそれがあり、私たちはその領分の中で仕事をしており、その範疇を越えるべきではなく、それによって逆に守られていることを日々考えているから。

 

ぐるんびーのことは知らないからなんとも言えず、こうしてSNSで放たれるものを垣間見る程度にしか知らないのだから判断することはできないのだけど、すごく難しいと思うのが「死ぬまで食べたい」という人がいる反対側には「もう何も食べたくない」という人たちと出会うことがとても多いから。

食べたい気持ちは支えることが容易くもある。

最期の時まで湿らせたスポンジに日本酒やウォッカなどその人が亡くなる前夜まで口に含ませることができたという、最期を在宅で過ごした患者さんの家族から伺ったこともある。

だけど、私たちが一番苦悩するのはそうした意欲のある人のことじゃなくて「もういらないんだ」という人たちの見送り方。

 

当然、急性期病院は終末期の方も搬送して来られるし、その中で「食べない」という患者さんは全然珍しくない。

いっぱいお話もできるし、認識もしっかりしていても「食べない」ということを選択し、経鼻経管を自己抜去し、点滴を自抜し、食事をすすめると「死にたい」という。

最期まで「食べたい」という気持ちを持っている人ばかりでもないし、病院では結局「食べたくない人」のその先を考えつつ、想像しつつ、治療や支援とは何かを考えていかないといけない。

介護現場に立ったことはないからわからないけど「食べたくない」となったときに、「どうぞどうぞ。食べずにどうぞ」ってにこやかに言えるのだろうか。

そういうところもあるのかもしれないけど、やっぱり少しは「食べてほしい」という希望や期待を最期までその人にしてしまうし、それは介護職員が希望するというよりも、家族がそうした思いでいることも多いのではないかと思う。

 

自分の両親がそうなったら、と思うと私は「好きなもの一口でも食べられるといいな」と絶対に思ってしまう。一番すきな食べ物も、一緒に食べて美味しいって目を丸くしたあれもこれも知っているから。

 

そんな終末期に限らずに介護状態という時間は長くあるし、きっとTwitterで書かれているのはその手前段階の話なのだろうけども、人の「もう十分です。やめてください」という意思に対してどのように応答していくかというのはすごく重いテーマだと思う。何もそれは、「じゃあ、安楽死だ」とか「尊厳死だ」ということを指すわけでもなく、介護も必要、医療もあればまだまだ生きていけるという状態で生きる意欲をもう失っている人とどう向き合っていくか、その人にとっての最適な時間とは?ということの話。

 

なので、すごく毎日悩ましい。

結局、家族にそれは残された宿題になってしまっている。

ACPなどもあるけれど、まだまだ市民権を得ていないし、いざその場に立たされたときに揺れる心情も、家族の思いもある。

難しいな〜って毎日考えている。