子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

宗教への警戒

安倍元首相の死とともに、改めて宗教への警戒があちこちで囁かれている(主にメディアとSNS)。

職場でもちょっと話題になっていた。

つくづくと、宗教との距離感は難しいなと思う。

 

かくいう私は小さい頃から完全にキリスト教の文化の中で育っていて、そんじょそこらの欧米人よりもずっとキリスト教文化に染まっていると思う。

何せ、両親、両祖父母、親族みんなクリスチャンだし、私自身もミッションスクールに中高時代通っていたし、大学の母校にはその昔宣教師館もあったという。

祖父は牧師だったし、クリスマスとイースターペンテコステはお祝いだった。それこそ父は戦後育ちだけどGHQに物資をもらったこともあったとか言ってて、戦後すぐの時代にバイオリンとか習っていた。

文化的に完全に欧米化していただろうし、そんな父が親になって私も生まれて物心ついたら当たり前にキリスト教のあれこれがあった。

 

だけど、親の教育方針は「神様を信じるかどうかはあなた次第」という考えだった。

結果的には姉はそのままキリスト教を離れていったし、私は「本当にいるかどうか、わからないけど死ぬ時に後悔したくない」という不遜で非信仰的で、自己中な理由でクリスチャンになったけど、これまで信仰の強要もないし私もまた子どもたちには「あなた次第よ」と伝えている。

 

別に、信じたからって幸せになるわけでもないし、不幸にならない保証もないし、悪いことが起きないわけでも死なないわけでもない。

 

だけど、安倍元首相の銃殺みたいな事件が起きるとふと思う。

宗教もさまざま。身を滅ぼすような宗教で家族や人間関係を壊してしまうようなものもあって、そういう怪しいものから安全な宗教は身を守ってくれているのかな、と。

 

私がキリスト教を好きなところは、自分に起きた悪いことも、どんなこともそこには因果応報などないという考えがあるから。

子どもが具合悪くなった時に「過去の行いが悪い」(過去って私が妊娠する前のことを指して)といった人がいたけどそんなの関係ない。

人間て弱いから、なんでも理由を欲しがるし、大概のことには理由があるけど、理由のつかないことを先祖の行いとか徳がないとかいうのは本当に違うと思っている。

当事者にこれ以上「だから何?」って話もないし、言う方は決めつけて優越的にそう言えるのかも知れないけど、そこに横たわる非対称な感じってすごく嫌い。

 

神様は善人にも悪人にも平等に雨を降らせ、陽を照らし、生かし死ぬ時がある。

全部そこは平等にできている。

理不尽なほどに平等。

私は神様のそういうスタンスが結構好きで、信じてもう20年以上になるけども、楽しいなと思っている。

 

宗教と聞くとやっぱりちょっと恐ろしく、近寄りがたいものに感じる気持ちもすごくわかるし、私も「うっわー洗脳されちゃうの怖い」と率直に思う。

 

どうせ信じるなら、心底気持ちが解放されるような、軽くなるようなものじゃないと辛いばかりじゃないかな。

それに本物の宗教なら親子や兄弟に強制入信させなくても、信じたいなって思う程度には魅力があると思う。強制すればするほど、自信のなさの表れなのかしら?と訝しんでしまう。