子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

広島で考えたこと。

家族で一緒に広島に行ってきた。娘と広島平和記念資料館に行って、話を聞いたり資料を見たりした。

長崎や沖縄には行ったことがあるものの行ったことのない場所で、子どもと一緒に行けたのは自己満足だとしても良かったと思っている。

 

原子爆弾による被災は言葉を絶する。筆舌に尽くし難いという言葉があるけど、こういう場面で使うのだろう。

即死だった方も、原爆による熱傷の後、数日で亡くなった方も、数年後に全身が癌に侵されて亡くなった方も、そして生き残った方も。

ここ広島にいた全ての人に、そしてその家族に深い影を落としている。

夏の暑い日に、朝ご飯を食べていた、外に水撒きに出ていた、仕事に向かっていた...。戦時下とはいえ日常生活を営んでいた人たちの上に落とされたんだということが、数々の遺品から伝わってくる。

 

印象深かったのは、生き延びたものの働けなくなった男性一家の苦悩で、身体中の不調を「心因性」とされて、「怠け者」などと言われて男性の妻や子どもたちが四面楚歌の状態で暮らさざるを得なかったという話だった。

結局どうなったかはわからないけど、きっとこういう家族はたくさんいたんだろうなと思う。

 

日本に原子爆弾が落とされたこと、それで数知れない人たちが亡くなったという経験はやっぱり日本の「心の傷」に違いない。

科学的にも心情的にも「あり得ない」と思うような非人道的なことなのに、「核の傘にいるんだから核を日本も持つべき」とか「核の傘下にあることを居直って肯定していくべき」といった論調も見かける。そういうことを言う人は「核保有反対なんて綺麗事で世界は済まされない」など言うのだろう。

 

だけどな。

日本が核を肯定することや持つとしたら、長崎や広島で原爆によって亡くなった人の命を「仕方がない」といっているようなもんだし、同じような犠牲者が出ることを肯定しているとしか思えなくて、「やっぱり絶対に核を持つことを反対と言い続けていって核兵器の悲惨さを言い続けていくしかないのではないか」と思った。

 

「綺麗事を言ってる」と言われたとしても、「核保有国が多くて国連の常任理事国のほとんどの国が保有している」と言うのも現実だけど「核による被害はあまりにも悲惨で傷が深すぎて、生きている人の命や未来すらも奪う、劣悪な武器」というのも事実。

綺麗事が、「現実を無視して表面だけを取り繕うこと」なのであれば、きっとそれは核保有の肯定論者にも言える。

 

若い人たちもたくさん見学に来ていたけど、歴史を学ぶことは今の時代を考えるためにもとても大事と思って資料館を後にした。