「ママ、生きてる?」
とある週末の昼下がり。次年度に向けてPTAの活動もイレギュラーに集まりがあって、いろんなことを深めに話す機会もあってついつい時間が長くかかってしまって、帰りは13時をとうに回っていた。
「子どもら、どうしてるかしら?」と電話したものの、繋がらないし折り返しもない。こりゃ二人で遊び込んでいるなぁというのは想像ついた。大体、週末の午前中など子どもたちも出不精気味でいつまで経ってもパジャマのままだし、外に遊びにいこうよと声をかけても寒い季節は「うーん後で」なんて行ってあっという間に3時、4時。
家に帰ったら案の定、というか想像を超えてスープ春雨などを勝手に食べていた。それくらいの知恵と知識と技術(お湯を沸かす)ことができるようになったんだなとひとしきり娘を褒めちぎった。
電話は気づいてなかったらしい。
その後、お昼ご飯を急いで準備して食べたところであっという間に私の美容院の時間。「一緒に家でて公園で遊んでていいよ。寒いから暗くなったら帰って早くシャワー浴びてね。美容院終わったら帰ってくるね」と行って出かける準備をしてたものの、パジャマのままでチャンバラごっこを始めて外遊びする気ゼロ。
とうとう美容院が終わるまで特に連絡もなく、外に出かけたんだかどうだか...。
そう思っていたら、急に電話がかかってきた。娘の携帯を使って息子がかけたのだけど第一声は「ママ、死んだ?生きてる?」という生存確認。
私から連絡がないから死んだと思ったとのこと。
毎度のことながら発想が極端。
「ママがいないなら僕も死ぬしかないと思って」など怖いことを言い出す。ママも生きてるからあなたも生きていなさい、と言ってスーパーで買い物してから帰るねってことで終わったんだけど、息子の中の「死」と「生」の幅の狭さというか割と常々と死んでしまいたいとか死ぬんじゃないかと考えているのは、ものすごく子どもらしい(素直であり、死というものの実態と離れているゆえの発想)なと思う一方で、切ないなとも思う。
私など、5−6才の時にそれほど死を考えたことはなくて「怖くて死にたくない」と思っていた。
息子の死に対する恐怖心のなさというのは、身近でないからなのかもしれないし、それとはまた別かもしれない。
わからないけど、死んでるんじゃないかなどという心配を子どもにかけないように生きていきたい。