子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

新型コロナワクチン接種1回目

f:id:like_little_children:20210421220914p:plain

ようやくコロナのワクチンを打つことができた。そもそも当院も3月には接種予定だった。なのに某大学病院がワクチンを抱え込むという古典的かつ信じられない暴挙のおかげで1ヶ月以上も伸びてしまった。

でもまあ、ワクチンの副反応の様子もわからないし一足先に人体実験になったってことでこちらの心の準備も整えられた。

 

なお、姉がやはり大学病院勤務で早速3月頭に受けていたので恐怖心はだいぶ和らいだ。8割減て感じで。

 

当日は注射を受けることよりも、問診医がうちの病院で一番お偉い先生で、その隣にはいつもすごくお世話になってる娘の先生もいて、ひたすらビビって頭真っ白だった。

打った直後は全然痛くなくて安静時間が設けられていたのだけど、すぐにでも動き出せる元気さがあった。

だけどさすがに夜になって家事を一通りしたところでだんだん腕が痛みだした。

注射を打ったら「翌日は予定を入れないように」とか「安静に過ごしてください」と言われていたのはこのためか...と納得。

ただ、今週6連勤だし、毎日予定だらけでじっとしていられない。

今日しか息子を病院につれていけないから、自分の予防接種後に病院に連れて行ったのだけど薬ももらうところまで入れてものすごく待たされ、息子が疲れ切っていたので抱っこをしなきゃだめかと思ったけど、なんとか最後まで歩いてくれた。ありがたい。息子がもう大きくなっていてよかった。

 

正直なところインフルのワクチンを打った日ですらも、飲酒してしまうような人なのだが、さすがに今日は飲酒は控えた。控えてよかった。なんか痛みがこの先も増してきそうな気が... 。

それでも新型コロナにかかる苦しみを思えば副反応の苦しみはマシなのかもしれない。

2回打ってみないとなんとも言えない話ではあるけれど、この波の大きさと変異種の強さの恐ろしさは過去1年とは全然違う怖さがある。ワクチンを希望する誰もが打てるようになったほうが、絶対いい(と思う)。

 

いる場所で見える景色が違う。

f:id:like_little_children:20210420224051p:plain

当然、当たり前のこと。当たり前すぎる話なのだけど、自分の置かれた立場、いる場所で同じ事象でも見えてる景色が全然違う。

以前につとめていた病院では、医師はそれなりに偉かったし、無責任だったし、一言で言えば仕事ができなかった。できないっていうのは、たとえば糖尿病の患者さんがいたときに適切な処方すらできなかった。専門じゃないからできないっていうのであれば薬剤師に聞くとかコンサルをかけるとか、何か対処すればいいのだけど全部師長に押し付けていた。

かといって、師長も30そこそこだったりで「わかんなーい」って感じでもあり、ジリジリ。

慢性疾患は急激に悪くなることが少ないものの、脳梗塞の所見があっても判断できない先生たちでそれはもう、驚くほど何も回ってなかった。今思えば。

 

だけどそういう組織の中でそういう人たちの中で働いていると「こういうもの」というふうにどこか受け入れてしまう部分もあって、変だよなと思いながらも「所詮は医師はこういうものだ」とどこかであきらめるというか受け入れてしまっていた。

 

全く同じ職種で同じような仕事をしていて、今の職場は180度違う。

先生は自ら歩く「責任感」て感じで、あれこれと悩みをぶつけると「わかった」の一言で患者さん家族や患者さんと向き合ってくれる。これは、MSWだからとか、そうじゃないとか関係ない。

先生がほんとうの意味で「偉い」し、なんで偉いかというと最終的に責任を持っているという立場だから。

できないことは調べて勉強するし、それは院長だろうが昨日きた先生だろうが同じ。

 

院長が受け持っていた患者さんの糖尿病のコントロールがつかなくて、院長があちこちに聞きまくって「うーん」って苦闘してくれていた。

こういう組織で働いているときに見えている医療の風景と、前職のような病院で見える医療の風景はぜんぜん違う。

同じ仕事をしていても、いる場所見えるものが違う。

 

これって、4歳の男児の親、とか、保育園にあずけている親、とか、大枠ではそこにカテゴライズされていたとしてもその社会、世界の中で見えるものがみんな違うってこととも似ている。

 

他者理解ということを思うときに、つい自分の枠組みで相手を捉えがちだけど、相手の置かれた立場や、いる場所から論じたくなったり決めつけたくなるけど、そうなったときほど自分がおこがましくなっていることに気を留めたい。