子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

「盗んではならない」

あっという間に9月になってしまった。

月日が経つのは本当に早い。

 

すごく心に留まった話を自分でも忘れないようにと記しておきたい。

「盗んではならない」という話。聖書の話だけどキリスト教に興味のない人も、すごく興味深い話じゃないかと思う。

あなたは盗んではならない。(出エジプト20:15)

聖書の中にもあるすごく有名な箇所。物を盗むなんて犯罪だし、そんなことしたいともしようとも思ったことがない。

 

それが私の正直な本音。きっと多くの人がそうだろうと思う。

当たり前に有名で、きっと聖書を手にとって少しでも読んだことのある人なら、もしくはそういう文化に触れた人なら誰でも知っている「十戒」の一つ。

 

この箇所から先日、通っている教会の牧師がメッセージをしてくれた。

その中で「盗む」ということの本当の意味を教えてもらった。

この聖書でいう盗むには、物理的に物を盗むことだけを指しているわけではないらしい。

例えば「あの人っていつもだらしなくて、何度注意しても同じことでミスばっかりして。最低だよね」なんて思ったり言ったりすることってあると思う。

実際に「だから別に仲間に入れる必要ないよね」って相手を切ったり、遠ざけたりすることもある。

そうやって「あの人はどうせ○○だ」とネガティブなレッテルを貼って差別したり見下してしまうこと。

これは神様が大切にしている価値を人間が勝手に下げていることなんだ、と語っていた。

そこでふと想像してみた。私には二人の子どもがいて、二人とも良いところも悪いところもある。だけど私にはかけがえのないたった一人のそれぞれで、一番良いところもどんなにか素晴らしいかも知っているから、もしも誰かが娘や息子について「あの子はどうせ」なんて言ったらすごく悲しいし「そんなことない」って思うだろう。

きっと、神様も私たちが誰かについて「どうせあの人は」と見下したり価値を下げるようなことを言ったら、傷つくんじゃないかと思う。

それは言い換えれば神様が与えてくれたその人の価値を勝手に人間が損なっていることなんだ、と思う。

 

それに加えて示唆的だったのは、実は「褒めていること」でも私たちは似たように「盗む」ことがあるということ。

これは特にキリスト教会にありがちではあるけど、普通に社会でも友人関係でもあるのかも。

例えばすごく英語が堪能な人がいると、その人がしたいと言ってるわけでもないのに勝手に「通訳者」として自分のために働かせようとしたり。

教会だったら音楽ができる人が伴奏者として演奏させられるとか、息を吸うように自然にあるんじゃないかな。

この話では元夫を思い出していた。

私の中の違和感がいっぱいあってその一つが、人を見るときに「この人は何をしてくれるか」「できるのか」にすごく注目する態度だった。

え?その人が何ができてもできなくても、その人そのものを見るって考えはないの?と思ったものだけど、彼の育った文化の中で身につけた彼なりの価値観は「人は自分の才能を他者に使うべきであるし、そうしないことはおかしい」くらいにとらえていた。

何度かそうしたことを言われたこともあったし、私が持っているいくつかの資格のことで嫌味を言われたことも一度や二度じゃない。

悪気はなくても、別にそれが「チャンスを与えているんだ」みたいな良さげな発想であったとしても、本人が与えられた才能や経験をどうやって人生の中で活かしていくかは、やはり個人に委ねられているんだろうと思う。

 

自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。(ルカの福音書6:42)

これも有名な話だけど人はああだ、あの人はこうだという話が人間は(私も含め)大好きで、評価したがる。

本当にうんざりするくらい、自分にも当てはまる。でもさ、あなた自身の中にまず、ちりどころがぶっとい梁が入っているのに、何が見えてんの?って話なんだよね。

 

こういう話が毎週聞けるし、神様が私たちをどういうふうに思ってくれてるんだろうかというのもよくわかるから、だからすごく大事だなと思う。私にはまだまだ気付いてないことがあったな〜なんて思わされた。

 

 




 

【発達のこと】放課後デイ利用に向けて

放課後デイの利用について4月に受診したときに主治医から「使わないですか」と聞かれていた。

それはそれは優しくて人生で怒ることがないんじゃないかというほどのそれはソフトな先生で、決して押しつけたりしてこなくて、だけど曖昧な話ではなくて治療に関しては的確にお話ししてくださって、いつも信頼を寄せている。

 

その先生から時折、放課後デイのことを聞かれていたので、「じゃあ、やっぱり使ったほうがいいかな」なんて安易に考えて、徒歩圏で新しくできたところの見学を軽い気持ちですることにした。

そしたら大変。

「お母さん、後ひと枠しかなくて。できれば今週中に見学に来てほしい」と。

OKOK。

それはいいんだけど行けても最短で土曜日。

土曜日でもOKと言ってもらえて、慌てて息子と一緒に見学に行ってきた。

実は新設の放デイの系列が兼ねてから地元にあって、雑居ビルの一室で「なんだかな」なんて見た目で判断してしまっていた。

だから通わせることもどうかな〜なんて。

新設の方もやはり雑居ビル内。

ただ、中に入ってみるとちゃんと間取りも工夫されていて、仕切りもあって、療育環境として全然悪くなかった。

雑居ビルだってなんの問題もないわ。そう思えた。

 

内容の説明もすごくわかりやすくて「ここに通わせよう」って意気込んでいる。

 

ただ、その後の手続きがなかなか大変だった。

①役所に相談に行く→受給者証の申請手続きをする

②計画相談を探す

③相談員さんと面談する

ようやく利用へ。

しかも、放デイの見学と利用申し込みを済ませていないと(要は空き枠の確認と確保)そもそも役所に相談に行っても意味がないという感じ。

 

放デイがどこにあるか?ということは役所で一覧表をくれるけど細かな情報(空きはどこ?特徴は?)などは自分で取得していくスタイル。

まあ、自分の子どものことだから当たり前といえば当たり前なんだけど。

 

これ、高齢者福祉で考えるとだいぶ手薄な印象で。

高齢者福祉だと、まずそもそも生活面での不安が出てきた段階で地域包括支援センターに相談に行ける。

徒歩圏の場所に配置されていて(都内は)、そこでまず介護保険の申請をして認定が降りるとケアマネージャーを探すことになる。

ケアマネが決まったら、週に何回どこのデイサービスに行くのか、訪問リハビリが必要?看護師は?といったアセスメントをして空いているデイサービスを探して調整してくれて、利用に至る。

 

それが障害福祉だと順番も少し変わるし、相談窓口も役所くらいだし、かといって役所だから親身に相談というかは一般の案内しかしてくれないし、自力で情報収集する力が試されている。

 

先天性の疾患を持つお子さんの親御さんが強くなるのは当たり前の話で、そもそも誰も救いの手を差し伸べてくれないんだよね。

だから全部親が頑張るしかない。

これ、頑張れない(知識がなかったり時間がなかったり)親御さんも多いと思う。私も随分ぼーっと1学期は過ごしてしまったし。

 

すごくラッキーなことに良い相談員さんに巡り会えて、デイもささっと見つかって、手続きも順調だったけど、ハードモードなんだなと思い知らされた。

息子自身、成長と内服薬と環境調整の相乗効果で少しずつ落ち着いている。

おそらく来年は支援級の利用ができなくなるかもしれない。

だけど、だからこそ放デイは大切な場所になっていく。

 

まあ、そういうあれこれを全く気にも留めない元夫は土曜日に放課後デイを利用するから土曜の面会は避けて欲しいことを伝えたら激おこだったよね。

「父親に会うこと以上の教育がどこにあるんだ」だって。療育にあるんだよそれが。残念ながら。

息子自身はそこまで父親との時間を楽しみにしていたり楽しくも思っていないのも現実で。

息子みたいなタイプは「家に帰る」とか「おばあちゃんといる」ことが実はすごくsecureな感じで、その安心安全は彼の中ではすごく重要なんだよ。

放課後デイはそんな彼の有り様も受け入れてくれるわけだし。

でもそんなこと話しても仕方ないし、そもそも息子のそういう細かな所を理解しようとか考えようって思ってない人に話しても無駄だなと思う。

 

ただ、息子の教育環境を父親ヅラして妨げてくるの、本当に許されない。しばらく戦いは続きそう。