子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

運動会と溶連菌、そして育てること。

ようやく娘と息子の運動会が終わりました。

息子は始めての運動会。演目は娘がゼロ歳のときと違いましたが、娘は終始抱っこで何もしなかったのに比べ、息子はきゃっきゃと喜んで参加していました。

ちゃんと果実ももぎ取れたし(先生が手作りで用意した木になったマジックでくっついてる実)。

娘は初めて親子別席で参加。

初めてのかけっこ、ダンス、競技。

どれもこれも精いっぱい演目をやりきっていました。

かけっこはヨーイドン!という合図でなかったせいか、みんなが走り出したのにキョトン、としてました。脚が速いのに!!残念!と心ながらに親ばかを発揮。でも、そうやってポーッとしてるのは実に娘らしくて、そういうところがすごく可愛い♡と思います。

 

昨年は、私が臨月でろくに相手にしてあげられず、今年もひとり親だから結局、息子にかかりっきり。でも、朝ごはんもあまり食べられずいやぁな予感はしていました。

運動会も、自分の演目以外、能面の顔でおとなしく席に座っていてかなり心配。

最後の親子ダンスでようやく声をかけられたので、体調をきいたら朝から訴えていた頭痛がまだある様子。

 

とりあえず、終わって帰るまでは抱っこしてあげられないしがんばって歩いてもらい、お家に帰って玄関に入った途端、玄関で寝始めてしまいました。

息子を実家に預け、土曜午後にやってる病院をなんとか探して受診→溶連菌+でした。

 

そんな体調悪い中、たくさんの演目をこなした娘に涙(実際には泣かないけど泣きたい気持ち)。

よく頑張ったなと思います。

 

ギリギリまで頑張り過ぎちゃうけど、自分は具合が悪い、とちゃんと私や元夫には言える力もあり、本当にstrengthに満ちた子だなと思います。

そこに甘えず、見逃さず、丁寧にこの良さを伸ばしていきたいです。

 

ゼロ歳児から保育園に預けていて、日々の大半を保育園で過ごす娘。娘にとって家庭とは何だろうか。家族とは何だろうか。

きっと大きくなってぶつかる壁、悩みにむなしさでいっぱいにならないように、娘を精いっぱいの愛情で包んであげたいのに、いつも現実的なことにばかり気を取られて「早く」「まだなの?」「また〜」という小言が多くて申し訳ない。

そのうえ、仕事で遅くなりがちで本当に自分のダメさばかりが目につきます。

 

娘の強さを、素晴らしさを失わないように大事に守って育てていかなくては、と今日つくづく思いました。

しつけとか教育とか、なかなか私はアクティブに「これをさせる」ということができないでいますが、一緒に生きていく人生のコアメンバーとして、必要を満たし、目をかけて強みを把握して最後は自分が全責任を負う覚悟で娘と息子と歩んでいきたいなぁと思いました。

運動会とか年度切り替えとか、子どもの成長をとても感じさせられる時間です。

「消費」と「消化」

 最近、仕事について考えてしまいます。

そのきっかけはこの記事。

ferret-plus.comちょうど、医療ソーシャルワーカー以外に校正の仕事もさせてもらっていて、イケてないなと思う見出しを好きに編集しています。文字数、語呂、語感を考えながらいいフレーズが出てきたときは「お!」と思って楽しくなります。

 

やっぱりこういう仕事は辞めたくないなと思いながらありがたくやらせてもらっているのですが、こんな自動生成とかで記事を作る時代に?と思うと少しゲンナリします。

 

編集者一本できっと働いていくのは安定からは程遠いし、こうした新しい技術に両手を挙げてwelcome!って思えない自分がいて、その意味では今のMSW(医療ソーシャルワーカー)は選んでよかったと思います。

 

さて、そんな仕事。

大きく分けて「消費」と「消化」に別れると思いました。

消費、とはユーザーが消費していくもの。サービスであれ、プロダクトであれ、有形無形問わず、人が消費していくものがありますね。

フード、アパレル、エンターテインメント、ネットコンテンツ......

身の回りのほとんどが消費財です。

一方で消化されるものは、教育、医療、福祉、フルオーダーメイドのものなどでしょうか(サービスでも)。

教育も受験塾などは消費に近そうですが、たとえば中学の授業で何時になく真剣に先生が語った憲法の話、戦争の話などは自分の脳裏に、心に焼き付いていて思想の血肉になっています。

医療も消費されるものもあると思います。美容のためのものなど、自分の欲求を満たすために消費していく側面が強そうです。一方で、疾患を治すためにつらくても受ける治療はやはり身になっていくので消化していくイメージに近そうです。

公共性の高いものほど消化されるイメージがありますが、たとえば自分のこだわりを実現させていくようなサービスは、消化、に近いでしょう。

 

たとえば子どもの一歳の誕生日には朝からこの服を着せて、このご飯を食べてここに行って、あそこで写真を撮って...思い出の地はインスタ映えなんかしなくても大事な場所で、AIが割り出せないこともまだまだあります。

後々まで残るものを「消化」と考えると、こうしたものは人の手の中で残っていくでしょう。

 

business.nikkeibp.co.jpここでおっしゃっている内容も合点の行くものですが、

「クリエイティビティー」「マネージメント」「ホスピタリティー」に価値の源泉がある仕事は残るでしょう。

教育や医療、福祉など多分にカスタムされる必要のある分野においては、まだまだ改善の余地もあるし、新しい仕事も生み出せそうです。

医療マネージメントってまだ誰もやってくれていない気がします。せいぜい、少し気の利いたMSWが間断ない受療援助などをしているくらいで。

 

人だからこそできることをもっと考えて取り組んでいきたいと思います。

これは、機械にとって変わられそうな編集の面においても。

エッジのきいた文章や誰かに向けて書かれた言葉など、機械では分析し得ない「その先」の言葉、表現があってそれこそが読み物の醍醐味です。

 

機械に取って代わられることが脅威ではなく、自分にできること、自分の持つ表現をいかにスケールさせていくかがこれからの時代に生きる鍵かな。

 

閑話休題

対話を諦めた日本の首相ですが、私はそれでも言葉を通して人とやりとりをしていきたい。言葉をなくした行動化は「いじめ」や「虐待」の発芽です。

それは秋葉原無差別殺傷事件が明らかにしているのに。

愚の骨頂。