嫌いな人は?と聞かれて誰を思い浮かべるだろうか。
リアルな知り合いで「本当に嫌い」という人はいない。ちょっと合わないなと思う人はいるけど、その人が困っていたら助けたいと思う。
政治家では本当に嫌だ!嫌い!と思う人がいる。例えば副総理とか。
言葉遣いや人を小バカにする言動、態度が苦手で「素直な性格なんですよ」と擁護する人も信じられないと思う。あなた、自分がそれ言われてそんな風に思えるの?って。
言葉遣いが悪いというのは大概において印象を悪くすると思う。
慇懃無礼もムカつくけど、最初から差別しますんで!みたいな言葉と態度で挑んでくる人は「社会性をどこにおき忘れてきたのだろうか?」と思う。
でも、身近にそんな人は最近いない。前はいたけど今はいない。
そのせいか、私の心は日々すごく穏やかでアトピー性皮膚炎もすっかり息を潜めているレベルだ。
ストレスが極限まで削ぎ落とされてる気がする。
だからかな、ネット上での罵詈雑言になんだか胸糞が悪くなる。
いわゆるエアリプってやつだろうか。
「あなたも国家資格で働いてるんだから、そういうことくらいは知っているべきだし知らないでそういうこと言っちゃってるのって頭おかしい」みたいな発言など、攻撃してる人もされてる人も見ず知らずの人なのだけど「おいおい、同業者かよ」となんだか嫌な気持ちになる。
まあ、同業者が聖職者でもなんでもなく、そもそも世の中に聖人など存在しないのだから誰でもそういう風に攻撃的な発言をすることはあるだろうし、私ももしかしたら時の総理に「おいおい、あんたそれで税金もらってご飯食べてるの?」とか思うことがあるのでおあいこか。
でもな、なんだかな。心の中で思うことと表に出すことの間には大きな溝があるんじゃないかと思う。
心の中で思うことにはどちらかというとその時の「気分」が上乗せされてる。自分自身のコンディションもそうだし、何かを目にした時の脊髄反射的な一瞬の気持ちみたいな。
Twitterはそういうものを拾って投げ出すことが得意だと思う。
私がどこで脊髄反射を起こすか、その時の自分のコンディションはなんだったか、などなど。
だから気をつけなくちゃいけないと思う。
その言葉を本人の前でも言えるかな、とかこれを自分が言われたとしたら自分はどう受け止めるだろうか、とか。
思い返すとそういう作業がなされてないままつぶやくことも多いなと思って反省。
一度発言したことは取り消しが効かない。
でも、聖書の教えはもう少し厳格だ。
マタイの福音書には「しかし、だれでもみだらな思いで女性を見るなら、それだけでもう、心の中では姦淫したことになるのです。」
とある。
つまり、心に思うだけでもそれは罪だと説いている。
誰かを悪く思うこと、意地悪な考えは頭の中で無制限にできてしまう。でもそれも含めて「罪」だという。
そんな風に自分を厳しく戒めて生きていくことはすごく難しくて大変なことだ。
私はそこまで寛容でも寛大でもないから、「チッ」と思うこと数知れず。
だけど、この聖書の言葉も少しだけ言いたいことはわかる。
そもそもそういう風にジャッジメントするような態度そのものを自分が改めなければいけないし、いくら言葉に出してなくても心にある想いは顔に、態度に出る。結局のところ隠しおおせない。
なかなかハードルは高いけど、罪を憎んで人を憎まず。
人の悪口をいうのは本当にダメだし心の中で人のことを悪く思うことも控えていきたい、Twitterを他山の石としたい。