子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

努力の方向性

朝から子どもたちが早起きをして大声を出して遊んでいるのでついつい起こされた。

まだ寝ていられる時間だったのに。

なので朝一からTwitterを眺めていたところ、気になる投稿に出くわした。

 頑張っている人にお疲れ様、ありがとう。かぁ。

 

何度か反芻しながら消化しきれないモヤモヤが残った。

 

高校から大学に入る時、第一志望に合格できず、浪人をすることになった。

滑り止めで受けて受かった学校も悪くなかったのだろうけど「きっと第一志望に行かなかったら一生後悔する」。

強迫観念にも近い思いで、第一志望校の合格切符を欲した。

そして1年後、私はまたしても第一志望校に落ちることになる。

その時、授業の中で講師の放った言葉が今も心に残っている。

「お前らいくらがんばった、努力した、誰より勉強したって言ったって、大学はそんな努力知ったこっちゃないよ。合格しなかった事実はあんたらの努力が足りなかったか、努力の方向性が間違ってたかどっちかなんだよ」

 

全く、ぐうの音も出ないほどに正しい。

あまりの正しさにそれ以来、努力の方向性を確認する癖がついている。

時に、「こうなりたい(ありたい)」と邁進してしまうことがある。その時のテンションは目標も高く突っ走るエネルギーに溢れている。

だけど、そういう時ほど危うい。

前後左右、突き進む方向に誤りはないか、間違った努力をしていないか?と。

 

なので、親しい人の努力や節目に「お疲れ様」は言えるけど、責任ある立場の人が何をなし得たかもわからない中、ありがとうはない。

 

がんばりました、結果ダメでした。なんて仕事では通用しない。

おろか大学受験ですら全く通用しないのだ。

受験の節目じゃなくても、多くの人が目標を到達できなかったとか、競り負けたとかそうした経験の中で、努力が報われないこともあるって知る。

努力の方向性を確認するようになって、それが正しかったと思えるのは成果が出た時。仕事や勉強では特に。

 

 

ひるがえって、約8年に及んだ安倍政権のことを思うとき、消費税が8→10%に上がったり、辺野古の埋め立てが地元や反対者の声を聞くことなく強行されたり、アイヌ新法はあいも変わらず「日本人目線」からのアイヌの取り扱いだったりと、森かけ桜以外でも徹底的にマイノリティに冷淡な姿勢で、これを「よかった!がんばった!」なんて評価できない。

「とにかくがんばったんだからありがとうだよ」とか評価しちゃうメンタリティこそ、根性論じゃないかと思う。

大人はもう少し自分のやったこと、やるべきこと、できなかったことに内省的であって欲しいし、それが一国のトップであるならば尚更、誠実さや倫理性を兼ね備えて仕事をするのは基本姿勢ではないかと思う。

臨時国会を開かないままだらだらと任期だけ伸ばして最長政権とか言われても...。

 

もちろん、そのことと潰瘍性大腸炎は別問題。難病治療はものすごく心身をすり減らす辛いものだと思う。なので、状態が安定していれば議員も続けられるだろうけど、状態を見ながら休職とかできないものなのか?と思う。

そのあたりの制度改革や難病患者への政策が厚くなっていれば、よかったと思うけど残念ながらそれも真逆になっているという。

金子元議員はサンデージャポンで「記者会見を見て大号泣した」と言ってた。身近にいた人にとっては、その親しみも共感できる思いもあったのだろうと思う。だけど、それは身内の馴れ合いにすぎない。

いろんなことが重なって見えてやっぱり仕事ってものすごくシビアなんだよ、と辞任会見を聞きながらしみじみ思った。