あなたとわたし
この仕事をしていると、日々いろんな方とお会いする。
おっとりした方、度胸のいい方、淡白な方、理論的な方...中には言葉尻を捉えて逆上してくる方もいる。
家族関係が著しく悪くて、病院を舞台に代理戦争をおっぱじめる人は全然珍しくない。
我らサンドバックなり。
ありとあらゆる、思いつく限りのクレームを言い残して退院する人もいれば退院後もクレームを入れてくる人もいる。
幸い、直接的に罵倒された経験はそう多くないけれど、やれやれと思うケースはやっぱり日々少なからずある。
そのためのMSW。
傾聴は基本の基。
なんの疑いもそこにはない。
そして全くメンタルダメージも残さない。
もし日々そのことに心が気を取られていたら、ほかの患者さんの支援が満足にはできないから、そういう患者さんや家族との時間はその人と私のものだけど、それ以外の時間はそうではない。ほかの人と私のもの。
家に帰れば私の時間はわたしのもの、私と子どものもの。そこに何かがスキいる暇はない。
でもふと思う。結婚していたときはかなり侵食されていたなぁと。
そしてその時間が私を削り、げんなりさせていた。
文字通りメンタルがやられていた。
あの頃、人とのコミュニケーションがこんなにも困難極めるのかとずいぶんと考えたものだけど、元夫以上に意味のわからない存在もなく、もし仮に彼を上回るプロクレーマーがいたとしても(実際いたのだけど)、家族ではないから私にはノーダメージ。
そう貫ける。
今の私が、彼と家族関係ではないことによってノーダメージであるように。
人がどうしてそういう態度を取るのか、なぜそんな会話の仕方(喧嘩腰、逆ギレ、泣き落としなどなど)で人と真っ当に対話できると思うのか。
自分には理解の範疇を超えることが人生には(生活には)たびたびある。
でもバウンダリーという境界線が自他にはある。このことは私にとって希望でもあり救いでもある。
私とあなたは違う。
だからそれでいいでしょう。って。
彼は(元夫は)それを許さないと言ったけれど、彼に許されなくても私と他者は交差はしつつも同一にはならない。
仕事上で出会うあらゆる人に対しても同じことが言える。
だから私は私でいるのだし、あなたはあなたでいるんでしょう。
って思う。
息子の主体、娘の主体。親子でも人格の異なる一個人だから、彼らの個体をそのもので尊重し、愛しつつ一緒に過ごす時間を貴く生きていきたい。