子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

障害者の「移動の自由」と企業の「努力義務」の間で

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障害者の話は出るようで、出ない。わかっているようでわかっていない。

なのでいろんな話を発信してくれる伊是名さんのコラムは毎回示唆的で、読むと毎度気付かされることがあった。

たまたまTwitterのタイムラインに彼女のツイートとブログリンクが流れてきて、昼休みにサラサラと読んだ。

blog.livedoor.jp「乗車拒否」という強いタイトルに、一体何があったんだろうかと思うとご家族での旅行のときの話が書かれていた。

障害があるというだけで、車椅子生活であるというだけで、ほんの思いつきの気軽な旅すらできないという現実。

これはきっと世界のどこに住んでいてもありうるだろうなと思う。

 

すごく前、娘がまだ1歳に満たないときに出張でスペインに行ったことがあった。そのときにただただ長い階段の上り下りをベビーカーでやらなくちゃいけない時があった。

 

まあ、仕方ない!と抱えようとしたときにササッと現地の人がベビーカーを運んでくれて本当にMuchas Gracias!!!ってことがあった。

世界は敵意で分裂する。そして世界は善意で支えられているんだ。

そんなふうに思ったことを、この記事を読んで思い出した。

 

伊是名さんが気軽な気持ちで出かけようとしても、そこにはいくつもの障壁が現実の問題としてあること、それをインフォーマルなもの(世界の善意みたいな)で支えてもらおうと思えば偶然に頼らざるを得ず、それがそのときに得られる保証もない。かといってフォーマルなもの(駅や制度)ですべて解決しようと思えば、それは理想だけれどその要求は無限に広がる。

 

無人の駅だけど、オストメイトのトイレも必要だし、オムツ替えのシートのあるトイレも欲しいし、エレベーターはもちろんホームドアも必須。

それはどれもないより絶対にあったほうが良いけれど、全国くまなくすべての駅に設置するってやっぱりすごく大変なのではないか、と思う。

理想と現実にはいくつも壁や隔たりがある。

 

そのうえで、どうやって解消していくか解決していくか…それは対話とかコミュニケーションとか、そうしたことの積み重ねなのではないかと思う。

たとえば、気軽な旅行をしたくても、「今回は突発的で事前連絡する余裕がなかったな」というときには、ルートも変更して、行きにはエレベーターもあって自力で(ご家族など同行者の協力)安全に行けるルートを選択肢つつ、帰路は事前に要望を伝えて対応の依頼をするとか。

 

「この電車に乗りたい!」っていう利用者の要望と、「いやこの人員体制でそんな無茶な!無理!」っていう駅員さんの攻防に思えたけど、もしも1週間以上の余裕がこのやり取りの中にあったら、伊是名さん自身も、駅の方も、行動にも結論にもなにか違いがあったのではないか。

 

ブログを読んでそんなことを思った。

 

自分自身が患者さんと公共交通機関で出かけたときは、目的地に何時に着きたいと伝えて、乗る電車や乗り換えの場所などを教えてもらいながら各所で駅員さんがスタンバってくれていた。

 

本当は、気軽な旅行ができることが一番良いのだろうけども。

ノーマライゼションとかバリアフリーとか、言葉だけは広まったものの、その言葉のほんとうの意味とか意図は人によっても様々になっている。そこには「価値」が伴うからなのだろう。

 

難しい。感覚も、常識も異なる。だからこその対話の必要性なのだろうと思う。