子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

親子の因果

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とある方が、「今年から子どもが保育園。美容室にも病院にも一人でいける!」というようなことをSNSに書いていて、それに対して「子どもがかわいそう、産まなければよいのに」というリプをつけている人がいた。

なんだろうか。と思って、そのリプをした人のアカウントに行って少しだけSNSの内容を見てきた(→朝方、暇にあかしてときどきやってる)。

毒親育ちで、自分は子どもなんかいらないと言っていた。そのほか、その方が反応しているSNSで子育てとか出産にまつわるものについて、へそが3回位ねじれちゃったようなものばかりだった。

で、あー知り合いにもこういう人いるなぁ。同じ人かなぁなんて思ったりして、改めて家族って病理だなということを考えた。

毒親と言われる親のもとで育てられた人は、当然そうではない親がどんなふうに子どもを取り扱い、子ども自身がどんな価値観を受け継いで育っているかとか、自分を醸成してきたかとか、想像していても実体験として知らない。

その逆もまた然り。

 

だから「家族」っていうもののイメージも認識も価値もきっとぜんぜん違う。そのことがひいては結婚・出産・子育てに対するバイアスにも影響している。

子どもが大きくなることで、「これでまた一つ、手が離れた」というのは多くの親が経験していることだと思う。

子どもによっては(障害や疾患があるなどによって)大人がついていないと生活ができないことももちろんあるけれど、日本は制度に不備はあるものの障害があっても学校に通うし子どもなりの社会生活を時期に応じて獲得していく。もちろん、医療的ケア児の中にはそれすら確保されていないことがあって、それは大問題でもあるけれど。

 

とにもかくにも、年齢を重ねることで子どもも「親子」だけの世界から「自分と友達」とか「自分と先生」とか関わる相手が増えて、そのたびに親は子どものすべてを把握する段階から「先生に把握してもらった子どもの成長や姿を知る」という段階に突入する。

そのことを「これでまた一つ、手が離れた」と親は感じる。

それは別に子どもをモノ扱いしているわけでもないし、子どもを邪魔だと思っているわけでもない。

関係性の変化や関わり方の変化は、家族の成長というか変容であるし、生きてる限りそうしたことを繰り返して家族って形成されていく。

保育園に行こうが幼稚園に行こうが、小学校に行こうが、親は親。

その場所ごとに親がやるべきことや求められていることは異なるけれど、それも含めて子育てだし、物理的に手が離れても精神的にはもっともっと繊細に関わらねばならないこともたくさんある。

人ぞれぞれ、親子でどんな関係性を築いているかは異なるし、その中身はお互いにSNSでは見定めようがない。

だから安易に「かわいそう」だの「こういう人は結局毒だ」とか決めつけるのって違うのではないかなと思った。

 

私の知り合いも、当時の上司が結婚して奥さんが妊娠したって話になってみんなでめでたいね!って話してたら「殺意を覚える」と言ってて本当にそら恐ろしいと思った。でも、彼女にとっては耐え難いほどの何かだったのだろう。親が子に与える影響(そして絶望)の深さを思い知った。