子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

子どもの命

以前にも書いたことなので繰り返しのことだけど、子どもの妊娠と出産は私にとって多分、人生の一大事だったんだと今にして思う。

妊娠がわかってしばらくしてからは、ずっと泣いていた気がする。誰とも会いたくないし、誰ともわかり合いたいとは思わないし、私のことをわかってくれるのは両親と姉だ、くらい閉鎖的な気持ちでいた。

仕事は好きだったし、上司は非常に優しい人だったから、仕事自体はやっていたけど、ぎりぎりがんばれていて、仕事が終わって帰路に着く頃には涙がポロポロ。理由はわからない。

鬱になっちゃったかな、と思った。つわりが軽快すると共に少しずつその気持ちは楽になったけど、相変わらず気持ちはずしんとしていた。

その正体は、責任とプレッシャーだった。

死産についてたくさんネット検索をして、我が子も次の外来で「心音が聞こえません」と言われるのではないかと毎度毎度覚悟していた。

 

多分多くの妊婦さんがそんなことを考えないのかもしれないけど、私はいつもその重い責任を感じては最悪の事態を想定していた。

最後までその念慮は消えることがなかった。

大きくなるお腹とか、今日も生きてたとか(健診の日に)そんなことがすごいありがたかった。だから別に何というわけでもなく特別なことをしたわけではないけど、子どもが無事に産まれてくることがないかもという思いはずっと拭えなかった。破水して入院した時は、その責任の重みが少し楽になって、あとは病院の先生がなんとかしてくれると思ったけど、生まれる時に仮死状態とかいろんな大変な状況をまたまた想定してプレッシャーを感じていた。

 

結果的には無事に生まれてすくすくと大きくなってくれたけど、生まれる前と後でやっぱり断然にその重みの感覚が違う。

お腹にいた時は食欲のあるなしも、生きるも死ぬも全部私にかかっていると思っていた。だけど生まれたら「その子本人の力だから」とようやく考えられるようになった。多分、お腹の中にいてもその子、その子の「命の時間」というのは決まっているのだろうと思うし、親の小手先のやりくりではどうにもならないことがあるんだと思う。

それでも私はあの頃私を責めていたし、もしも今後妊娠するとしたらやっぱり同じような重責とプレッシャーに苦しむだろうな。

 

子どもの命は子どものものなのだろうけど、守りきれないことへの恐怖ってすごく強い。

妊娠中ほどの追い詰められ感はないけど、それでも子どもの毎日の無事って決して当たり前じゃないと日々思う。