よゐこの濱口さんと南明奈さんのお子さんが空に旅立ったというニュースを読んだ。
news.yahoo.co.jp身近にも死産の経験者はいて、掛ける言葉は今もって私にはない。
なんてつらいことだろう。
どうしてなのだろう。
意味も理由もないかもしれないけれど、なんで、なんでという気持ちが溢れてしまう。
他人の私がそうなのだから当事者の苦しみは想像を絶する。
子どもが生まれる前は、周囲はすごく祝福ムードで「いつ生まれるの?」「男女は?」「名前は決めた?」などなど聞いたり、挨拶代わりに会話したりすることがある。
自分が妊娠をしていたときのことをつい思い出す。
無事に生まれる保証はどこにもない中、お腹の子どものことを誰かに話すことがとても苦痛だった。
個人的には子どもを産む、育てる未知の世界にドキドキしていたものの、楽しみにする以上に恐怖だった。
「死産かもしれない」という思いが、羊水の破裂で入院できるまでつきまとっていた。
入院してからも心音はあるものの胎動が長いこと(6時間以上)なくて、もしかしたら体の動かない子どもかもしれないという覚悟もしていた。
無事に子どもが生まれることは当たり前ではない。
挨拶代わりの話題が、後々にその夫婦を苦しめるかもしれない。プレゼントが二度と見たくない辛い辛いものになってしまうこともあるかもしれない。
最悪のことばかりを考えては生きていけないよ、と思う人もいるかもしれないけれど、人はいつだって本当は死と隣り合わせ。
子どもの死は、何よりもこの世の中で最も悲しいことだと思う。誕生が喜びである分、その悲しみの深さは計り知れない。
ただただ、無事に生まれてきますように。
同僚や友人が妊娠して伝えるのはこの言葉。
それにしても、少なくない人たちが子どもの死を経験しているにもかかわらず、世の中(メディア)は健康に生まれることが前提で進んでいく。そのことへの違和感も覚えている。
どんな命でも(短くても不自由があっても)、親のとっては100%で何にも代え難いもの。
命ってなんだろうとか、生きるってなんだろうとか、人の命に触れるといつも考えさせられる。