子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

期待すること。

子どもを妊娠していたとき、「生まれてきてくれることが何より。生きていること以上を望まない」と真剣に思っていた。

毎日、生きてるかということを心配していた。

あれから7年以上の歳月が流れて時々、妊娠していた頃の思いを思い出す。

だけど娘や息子に「こうしてほしい」「ああしてほしい」という日常の事柄(癇癪を起こして食べ物を粗末にしないでほしいとか、友達に優しく接してねとか)から、将来のことまであれこれと願ってしまう。

 

思い返せばいろんなことを期待して、いろんなことを人にそうあってほしいと望んでいるような気がする。

例えば仕事でも、職場の人には些細なことでも相談したいし、ちょっと分からないなぁと思ったことがあったら他部署の人に教えてもらいたいなぁと思ったりする。

逆に聴かれることもたくさんあるし、聴かれて分からないことがあれば調べてでも答えたいと思う。

 

高校時代に性悪説性善説について習ったことがあって、圧倒的に私は性善説だなと思ったことがある。

人って「よくなりたい」とか「よきに」と思って動いてるんじゃないか、と。

そうじゃない人ってそうじゃなくなるほどの何か阻害要因でも生きてる中であったんじゃないか。と思ってしまう。

 

高校時代はそんなふうに思っていたけど、今は世の中全てが性善でもないような気もして、分からなくなっている。

 

今、自分が子どもたちに期待していること、希望していることって誠実に生きる人であってほしいということ。

誠実に生きるとは、人生に起こる課題から逃げないこと、嘘をついたり騙したりじゃなく、人にも自分にも正直であること。

などだ。

 

期待するって「この人にはそれができる」という相手を信じる気持ちがあればこそ出てくるものなのだと思う。私が妊娠中に「この子が生きていればそれだけで十分」と思ったのは、無事に生まれることを信じきれなかったからだと思う。

 

患者さんと日々接していて、分かり合えないことも伝わらないことも多々ある。

だけど、時間をかけてその方の持っている社会背景や文化背景にも配慮して言葉を合わせながら話していると、信頼してくれているなぁと思えたり、そうなれると私もなるべく無色透明で患者さんを中心に置いたときに何がベストか?を考えて支援とは何かを考えられるようになる。

患者さんは自分で自分のことを決めたり、今後も支援の必要性は形を変えつつも力強く生きていけるという側面を思いながら接している。多分、期待したい、期待しているということが私の中にあるんだと思う。

それはときには重くもあるから、家族であれ仕事であれ、期待過剰でいるのは傲慢だと思う。

だけど、「きっと乗り越えていけるよ」と期待しながら自分も上司に接してもらっていて、自分自身がすごく成長できているのを感じるし、人間関係において良い意味で期待するからこそ、発展的な関係が築けるのだろうと思う。

それは友達でも家族でも。

 

なので、期待過剰になってないか?は点検しつつも期待することの良さも心に留めておきたい。