子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

生きること、死ぬことを考える。

高校1年の時だったと思う。

私の通っていた学校には、ユニークな授業があった。

宗教科の時間だったか、社会科だったか忘れたけど、その時に習ったことで記憶深いテーマがある。

「死の準備教育」というものだった。

 

キューブラー=ロスの有名な死の受容段階は以下の通りだ。

  • 隔離と避難:自分が死ぬのは「嘘だ」と否定して死ぬことを考えない。
  • 怒り:なぜ自分が死ななければならないのか?と怒り、場合によってはそれを周りの人やものにぶつける。
  • 取引:死なないで済むならあれも拝む、これも身につけるなど取引したり、何かにすがることでなんとかしようとする状態。
  • 抑うつ:どうでも良くなり何もしたくなくなる状態、段階。
  • 受容:自分は死んでいくんだということを受容する段階。

この通りに人は考えるのかしら??と習った当時は少し懐疑的だった。今でもどういう死に方をするかわからないけど、自分は受容まで至れるかしら??取引してる間に命の終わりが来るかも...と思ったりする。

詳細は忘れてしまったけど、他にもグリーフケアのことや人工中絶のこと、尊厳死安楽死も学んだ。

 

最近、ある難病患者の女性が自ら死を望み、それを幇助した医師が逮捕されたというニュースを目にして、この授業のことなどを思い出したり、安楽死尊厳死について改めて考えていた。

 

news.yahoo.co.jp

 

尊厳死安楽死について日本臨床倫理学会がその定義をわかりやすくまとめている。

 

どんな治療をどう選択するか。

そこには患者本人の意思決定があるべきだし、理想を言えばそのことを家族にも理解して受け入れてもらっていることが望ましい。

 

尊厳死というと、思い出すのはとある医師のICでの言葉だ。

「今、○さんの体の状態は△△の栄養も受け付けなくて、酸素を投入しても肺には十分に酸素を取り込める状態ではないです。

心肺蘇生をすることもできますが、痛くて苦しい処置です。それを何回もしなければならないのですが、どうしますか?」

フルコースをご希望されて急性期での治療をした方だったけど結局、心肺蘇生で苦しむのならそれはさせたくない、という結論だった。

「最期を一緒に過ごさせてほしい」という希望が出て、そこまではなんとか命を繋いで、最期の時間を家族と過ごしていただいた。

救急科での出来事だったけど、この時の出来事は私の中では深く深く心に刻まれている。

 

私が心に留まったこの出来事と、今回、安楽死を望んだ女性とは全く異なるケースだし、それを同じ机に並べて語ることはできない。

だけど、どんなシチュエーションにおいても、冷静で丁寧な医師の言葉は、患者さん及びそのご家族の決断や価値観に大きく影響を及ぼす。

 

今回の安楽死の話に纏わり、そのニュースにぶら下がるコメントで引っかかる言葉があった。

「自分の生きる選択」や「死ぬ選択」という言葉。

「死んだ方が楽だろう。自分ならそうしたい」という言葉。

生きることの選択。

死ぬことの選択。

それを認めろというコメント。

そう考える人もいるだろう。このニュースに関係なく日頃からそう思っていたことが、たまたまニュースとともに想起されているのかもしれない。

 

ただ一方で、究極的には自分がどうやって生まれてきてどう育てられるか、いつ死ぬのか、それは選ぶことができないのではないか、と考えている。

 

高校時代も同じことを考えていて、またこうしたニュースを見るたびに、仕事で様々な死を見るたびに、立ち止まって考える。

 

多くの日本人は宗教を持たない人が多いから、自分がきっと神様になるしかないんだろうなって思うけど、自分がコントロールできないことも世の中にたくさんある。

私自身、本当は自分でコントロールしたいと思うし、自制って言葉を割と好むのでそんなふうに生死をもコントロールしたいという気持ちがわからなくもない。

 

一方で死ぬこと自体、生まれてくること自体にほとんどの場合、自分自身の意思は反映できない(例えば突然の交通事故、病、災害など望まない死はとても多いと思う)と考えている。

 

もしも死にゆく段階を踏んでいく時間があるのだとすれば、どんなふうに死んでいきたいかということは選択できるだろう。元気な時に考えていたことが、病気になって変わることもあるだろうし、いろんな自分の中の変化が訪れるかもしれない。

 

自分の最期を安楽死で迎えるのかどうかも含めてもっともっと生きることや死ぬことを考えたり、どんなことが(死に向かうときにどんな過ごし方があるかという可能性とか)あるのか話し合ったり。それはもしかしたら、中学生とか高校生とかの時期に考える機会があってもいいような気がする。

 

大きくなって、大人になるとそういうことを議論しましょうなんて簡単に言われる割には、じゃあいつ、誰と??ってなる。それに、その界隈に絡む利権者が顔を出したりして、さももっともらしい「専門家」の意見を聞くと自分の本音が見えにくくなってしまう。

私にとっては高校時代にあの教室とあの友達と話した日々の中に生きること、死ぬことを考えるベースがあるなぁと思う。

 

 

ちなみに、病院で働き始めて何年か経ち、その間に医師が患者さんに行うICに無数同席させていただいている。

その中には「DNARの意思確認を行う」というものもある。

現場によって異なるのだろうけど、今の日本の病院は大きく急性期、回復期、療養期に分かれているけど、療養期に入院できる療養病棟について言えば、そのほとんどでDNRないしDNARの同意をした上での入院となる。

DNARとはDo Not Attempt Resuscitation

つまり、心肺蘇生を試みないこと。

最近では患者さんとその家族の意思として「苦しいことはさせたくない」とDNARに同意されている方もいる。

もちろん、フルコースを希望される方もいる。

 

実際、あらゆる治療を望む人はそれを行い、延命措置はしないと考える人には苦痛を和らげたりする治療にとどめる、というのが最近のごく一般的な医療現場の判断なのではないかなと思う。

 

今回のニュースは少なからずの人に生き死にを考える一石を投じたと思う。

私もまだまだ浅くしか考えられていないので、この先も考え続けていきたいと思う。

今時点では、親のことも自分のことも考えると、最期の時間を穏やかに過ごせるように、苦しかったり痛かったりが少しでも減らせるように時間を送れたら...ということを願っている。でもまた、その状況になったらいっぱい悩むのだろうな。