子どもと暮らす日々のブログ

病院で働きながら子どもと生活する日々を書いています。

ミクロもマクロも、そしてメゾも。

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社会福祉士の勉強をしていた時、割と初期に教えてもらった「ミクロ・メゾ・マクロ」という概念。

ソーシャルワーカーとして働く上で、1対1のミクロの視点の先に地域とかコミュニティと言ったメゾの視点、そして業界全体や国家などといったマクロの視点まで見通すことや視座を持つこと、働きかけをすることなどもまた、職務であることを教えてもらった。

それからもう何年も経つ。

 

この1年はコロナのことばかりが世の中の関心事で、オリンピックにしろ政権交代にしろ、新型コロナの話と密接に結びついて語られている。

 

その中でも気になるのは、「60代以上の高齢者が呼吸器つけるなんて」という批判がましい意見だ。それが単に一般の人から発せられるのではなく医療者や医療従事者から発信されていること。

何かものすごい恨みでもあるのだろうか。

高齢者というだけで、社会の悪者みたいに語るその切り口が、本当に社会福祉を学んでいるとは正直なところ思えない...と感じたりもした。

 

なんだかモヤッとするな〜と思っていて、ふとこのミクロやマクロの話を思い出した。

職場で患者さんの担当をさせてもらって毎日、いろんな世代のいろんな人に出会う。そしてそのご家族とも。

20代の患者さんもいれば90代の人もいる。性格も人格もそれぞれ。生きてきた環境ももちろん違う。だから、疾患への向き合い方も人それぞれ。

その多様性がおもしろくもあり、時には大変でもあり、違うからこそ私のような職種が病院でも必要とされている。

呼吸器を乗っけるかどうか、その判断も50代でも拒否するひともいれば80代でもフルコースを希望する人もいる。

もっといえば、最初はDNARを受け入れていても、いざとなればやっぱりフルコースを希望したいという人も当然いる。

 

医療従事者は、その家族や本人のゆらぎにも変化にも寄り添いながら、何が最良かを考えてもらえるように関わっていく。もちろん、うまくいかないなってこともあるけれど、言葉を尽くして態度を尽くして...。

 

以前に、療養病棟から「やっぱりフルコースが良い!」と救急に搬送された人がいたけれど、救急の先生が本人の状態を見て「今、心肺蘇生や呼吸器をつけることによる本人の苦痛」について、丁寧に言葉を尽くして語って、結果的には自然な形での看取りとなった。

患者さんも家族も、(医者だって)何がその患者さんにとって最善かなど、なかなかすぐにはわからない。

日々の仕事ではミクロレベルで患者さんと向き合っているから、世代でくくれば傾向もあるのだろうし、地域でもくくれる傾向があるのだろうと思う。

 

だけど、60代だから呼吸器をつけず、50代だからOKというのも全然意味がわからないし、それで区切ることが本当に「線引」なのか?マクロ的視点なのか?と思ってしまう。

これをいうと、スウェーデンの事例とかフィンランドでは〜という人もいるけれど、ノーマライゼーションもACP的なことも取り組みのレベルが日本と異なる。宗教観も全然違う。

 

ちなみにキリスト教は「死んで終わり」ではない。「永遠の命」という概念があって、死の先がある。仏教みたいな輪廻転生みたいな概念はキリスト教にはない。

そういうことも合わせて日頃から考えてないと、「コロナで医療崩壊!呼吸器つける高齢者はだめ」みたいな話が独り歩きする。

 

ちなみに、当院の先生のお友達(推定年齢65歳以上)もエクモまで行ったけど無事に生還したとのこと。

年齢がいくつであっても、人の命が救われて、救われた人が春を感じたり、ご飯を美味しく食べたり、家族の笑顔や好きなものに触れられることができるのは良いことなのではないか、と個人的には思う。

 

毎日、ミクロレベルで患者さんと出会う私は患者さんを目の前にして「高齢者は若者に呼吸器を譲るべき」だなんて言えない。

日本が築いてきた皆保険制度の限界ももちろんわかっているし、医療が無限ではないこともよくわかる。

だけどこの皆保険制度は、年齢やバックグラウンド問わず、皆が医療を受けやすくするための制度だったはず。

 

負担割合や診療報酬のことなど見直すべきことも多々あるだろうけども、このコロナ禍に乗じて「高齢者が医療を受けていること」そのものを批判するのは本当にどうかと思うよ??なんて思っている。