【敗戦後75年】特攻を免れた祖父の話
母方の祖父は私と一番仲良しだったと思う。私、天国で一番会いたいのはおじいちゃんだ。
遠藤周作と同じくらい会いたい。
おじいちゃんが亡くなった後も、元気に生きてたし子どもも二人いるんだよ、すごく可愛いんだよって報告したい。
おじいちゃんは6歳の時にお母さんを亡くして、お父さんは仕事をやめられないから生まれたばかりの弟をおぶって小学校に通っていたという。
だから弟が泣くと教室を出なくちゃいけなくて、満足に読み書きもできなかった。だけど、向学心はあったおかげで師範学校にも合格した。
だけど、ちょうど戦争が始まるというタイミングだったのと、仕事もしなくちゃいけないってことで学校は泣く泣く諦めて、結局戦争中は兵隊として招集されていた。
だけどおじいちゃんはどうしても戦地に行きたくなくて醤油を飲んだりしたという。
知り合いの医者にどうしたら戦地に送られないか聞いたら、体を壊せば大丈夫かもという悪知恵を頂いたらしい。
でも、結局は特攻隊に配属されてしまって、もう空に散るしかない。
順番が回ってくるなぁ、死ぬんだなぁと思っていた時に、ものすごく天候が悪くなって待機になった。そこから数日、飛べるか飛べないか、という日々の中で敗戦が決まっておじいちゃんは特攻による戦死を免れた。
敗戦後は闇市とか生きていくためにいろいろな仕事をしたという。6歳下の弟も無事で、お父さんも元気で生きていて、間も無く祖母と結婚した。
その後、結局勉強をする機会には恵まれず、70代なかばまで働き詰めだった。
おじいちゃんというと「働き者」というイメージしかない。私が子供の頃にはそれでも休みの日も少しは増えたけど、仕事がら土日も盆暮れもない生活で、おじいちゃんの休みの日を教えてもらって夏休みは遊びに行って、遊びに行くと必ず品川区民公園や近所の公園に連れて行ってくれた。
おじいちゃんとは二人乗り自転車に乗ったり、本当にいっぱい遊んでもらった。
おじいちゃんは競馬の勝ち馬を予想する仕事をしていた(と思う)。
祖母はおじいちゃんの仕事をすごく恥ずかしがって嫌がったけど、今日は船橋、来週は大井、府中...とあちこち行って働きづくめだった。
身近にそういうことで身を滅ぼす人がいるから。と絶対に賭け事も酒タバコもしなくて、真面目一徹だった。
頭もきっとよかったはずだし、時代が違えば学校の先生になっていたかもしれない。戦争がなければきっとおじいちゃんはそういう人生を歩んでいたと思う。
私はおじいちゃんの仕事はかっこいいなって今でも思うけど、本当にやりたかった学校の先生になれなかったのは残念という言葉では表せないだろうと思う。
もう75年も前の話なのだけど、私が生まれた時にはまだ戦後50年にもなってなかったのかと思うと、全然昔の話でもない。
戦後が100年になっても戦争がもたらす破壊と分断は語り継がないといけない。そう思う。